1. オアシスでの生活
地球は水と火と土で成り、そこから多くの生物がミネラルを取り入れて生きています。景教徒たちは砂州と呼ばれていた敦煌ででも生活していました。
日本のように豊かな水と緑に囲まれている島国とは違い、緑も水も見られない敦煌やトルファンの砂漠の地で、当時多くの果物が栽培や販売もされ、ブドウも多く作られていました。それは、地下に大量の水の道が滔々(とうとう)と流れていたことによります。天山山脈、崑崙山脈からの雪解け水が大量の地下水となり、20メートルの深さに縦穴式井戸を作って多くの地下水を利用していました。その水の取り入れ式をカレーズ法と呼びます。
地下水は、西はアフリカからシリア、イラン、東はトルファン、敦煌へと続いています。これがオアシスの道ともいわれていました。
トルファンの町の北側には11キロにわたってブドウ畑が広がり、乾燥させたブドウが売られ、時期になると多くの観光客でにぎわうほどです。その周辺には1500カ所ほどのカレーズがあり、水源となっています。
聖書からも、西アジアの遊牧民族が深い井戸を掘り当てて生活していたことが分かります。
イエス様がパレスチナのスカルにある井戸で一人の女性に会い、人々が求めていたメシアこそ自分であることを伝えると、女性はイエス様に出逢えたことを非常に喜んだとあります(ヨハネの福音書4章)。その井戸はその時代より1500年ほど前から存在し、地下には大量の水が流れていました。しかし、地上の水を飲んでも枯れ果てる人間の心や魂を満たすものこそ、永遠の命の水であるイエス・メシアでした。人はこの方を求め続けていくことによって満たされて、永遠に生かされていきます。
中国の史書『漢書』や『魏書』の西域伝には、カシュガルに多くの民族が行き交い、店は列をなすほど栄えていたことや6世紀の高昌の様子も描かれていて、砂漠でも気温は高く、麦は年に2度作られ、養蚕や果物の栽培を行い、多くのブドウ酒や良質の塩を中国に献上していると書かれています。この地に景教徒の多くの信徒たちも地下水を利用して福音に生きていたことと考えます。
2. 砂州の敦煌での集会
英国の探検家スタイン(1862〜1943)によって1908年に発見された敦煌の景教徒たちの集会室の壁画には、高さ88センチ、幅55センチの緋色絹製の指導者の絵が描かれていました。頭の帽子や胸には十字の徽章がついています。右手は三位一体神の「三」とイエス・メシアの神と人の二性を「親指と中指」で表現しています。このスタイルは東方正教会に似ています。発見された画をもとにロバート・マクレガーが複製画を作成しました(下図)。ローマ教会のメシア像はほとんどが立体像ですが、東方教会は立体像ではなく画像のみです。
この人物画と中央の京都広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像(飛鳥時代の作で国宝第1号)の右手の指の形が似ていることから、景教徒たちが京都に来ていたとの太秦渡来説が起きていきました。しかしよくよく見ると、十字の徽章すらなく、指が頬に近く、韓国の菩薩像もすべて同じです。今日に残るロシアなどの東方正教会のメシア画イコンはすべて、敦煌で発見されたものに一致していて、菩薩像とはまったく異なります。景教が京都に渡来したとの説は再検討する必要があります。
3. 中央アジアの探検家たち
1)ロシアのプルジェワルスキー(1839〜88)
彼は1877年にタリム盆地でロプノール湖を発見。多くの旅行記を遺しました。キルギスに彼の別荘と記念碑があります。
2)スウェーデンのヘディン(1865〜1952)
彼は1893年から1937年にかけ、4回にわたり中央アジアを探検、楼蘭遺跡を発見しました。
3)英国のスタイン(1862〜1943)
彼は1900年から3回にわたり中央アジアを探検し、特に1907年に敦煌の千仏洞で古写本を発見しました。
4)フランスのペリオ(1878〜1945)
彼は1906年から08年にかけて中央アジアを探検し、多くの遺跡調査を行い、敦煌文書や絵画、文物を発見し中央アジア史に貢献しました。
5)日本では大谷探検隊はじめ、現在中央アジア各地では周辺諸国と共同発掘調査を行い、多くの遺跡や遺構が発見されています。
著者が2017年と18年の2回、中央アジアのキルギス国で東方教会史について講演し、遺跡ツアーにも参加したとき、アク・べシムの遺跡調査をしていた帝京大学の調査団に出会いました。その時、ドローンで空撮して調査していました。唐代の中国居住跡を発見し、多くの瓦や漢字で書かれたものが発見されました。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
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