すべての研究は1625年頃、中国西安の土から発見された「大秦景教流行中国碑」(781建碑)から始まる
東方教会の歴史小年表と地図
旧約時代のイスラエル民族がアジア各地に離散し、主な祭りに母国に帰還する。
紀元前5頃 メシアの降誕に東方ペルシアからの博士たちがメシアを礼拝し、帰国してメシアの降誕を伝え広める。
マタイの福音書10章6節、イスラエルの失われた家への宣教。
30年代頃 聖霊の降臨により世界宣教拡大。ユダヤから中央アジア、東アジアに宣教。
100頃 シリアのエデッサに会堂。伝承では初代監督は使徒トマス。インドも使徒トマスが初代監督。アダイ(タダイ)とアッガイとマリも参加、信徒が増加。
180頃 タティアヌスが四福音書作成。
200頃 エデッサに神学大学。
253頃 シャープフル1世により、ローマから多くの人が捕らえられ、信徒たちがペルシアに定住。
258頃 チグリス川下流の町ジョンディシャプールに会堂建設。神学、医学他が発達。
280頃 同川下流のセリューシャ・クテシフォンに大司教が着任。
300頃 エウセビオスの『教会史』に東方教会が記述される。
301頃 オスロヘネ王国が世界初のキリスト教信仰国となる。
325頃 ニシビスに神学大学設置。
350頃 シリア語新約聖書(ぺシッタ)完成。
410 セレウキア・クテシフォンでマル・イサク東方教会議。二ケヤ信条議定書を受け入れた会議。
424 ダドエシュ総会議。西方ローマ教会の首位性でなく、どの教会も主イエスにあって一つとし、信仰の自由を尊重した。
484頃 東方教会が西方教会から独立。
488頃 ローマ皇帝ゼノがエディサ神学大学を破壊、附属病院を廃棄。
499頃 教職者の独身制を廃止。
503頃 サマルカンドに主教座。文字を開発し聖書翻訳開始。
618~907頃 唐代。635年に長安に初代宣教師が着任し、皇帝に接見。638年に中国宣教開始、景教会堂(大秦寺・景寺)が各地に建つ。
641頃~ シリア語から多くの漢訳景教文書を作成。
717頃 長安に宣教団第2陣が到着。
781 大秦景教流行中国碑が長安の会堂に建つ。804年に空海が長安に着き、2年後帰国。
845頃 武宗皇帝が宗教弾圧と追放。景教徒たちは国外追放。景教碑を埋めて隠す。
9~14世紀 国外追放後、会堂は十字寺、名称は也里可温(エリカオン=福音の意味)と改称。中央アジアや中国各地にエリカオン教徒離散。ネストリアンの呼称は西方教会側の蔑称。
1271頃 クビライ・ハーンが中国の元を設立。母は景教徒。
1281年11月 北京出身のマルコが第58代東方教会総主教に就任、セレウキア・クテシフォンで37歳。ソーマと西方への旅に出て、イラク、スペイン、フランス、ローマを旅する。
1275~92 マルコ・ポーロが北京に着き中国を旅する。アジアの地に東方教会の存在を書く。東方見聞録で「ネストリウス派」の用語が出るようになった。
1369~ 中国が明王朝となりエリカオン教を禁止。
1625頃 西安で大秦景教流行中国碑が土から見つかる。イエズス会が本部のローマに発見と内容を伝える。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
スハ・ラッサム著『イラクのキリスト教』(キリスト新聞社、2016年)
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