東方教会の本拠地、エデッサに宣教
1. 記録文書
『教会史』を書いたキリスト教初期の人物にエウセビオス(260?~340?)がいます。その中で、シリア北部にあるオスロエネ王国の首都エデッサに派遣されて宣教した、70人の弟子の一人アダイあるいはタダイについて、次のように記しています。
その方<イエス>が死者から復活し昇天した後、12使徒の一人のトマスは、神的な力に動かされ、キリストの70人の弟子の一人に数えられているタダイを、キリストについて教える使者・福音伝道者としてエデッサに遣わした。そして、彼を介して、わたしたちの救い主のすべての約束が成就されたのである。これについて書かれた証言は、当時王の都だったエデッサの記録保管所から借り出された文書にある。(『エウセビオス「教会史」』秦剛平訳、講談社)
この記録文書は、シリア語で書かれました。使者アダイは、王アブガル5世<前4~後46/50>のもとに行き、イエスの名と証しと教えを伝えました。イエスが地上で活動していたときにアブガルと交わした往復書簡に、王自身の治癒の懇願と、治癒のために昇天後に使者を遣わすとの約束があり、アダイが派遣されたことにより王は完治し、約束が成就したと述べています。これは28/29年に起きたと書いてあります。
アダイは王アブガル以外にも大勢の市民を癒やし、イエスが語られた神の言葉やなされた事柄の福音を伝えました。その結果、シリアに大勢の信徒が生まれ、教会が建ち、さらに福音は東方世界に、つまり東の果てにまで拡大していきました。(シリア語『使徒アダイの教理』)
2世紀のオスロエネ王国の時代には福音の教えが公認され、201年には洪水で会堂が流されたとの記録もあるほどです(『エデッサ史』)。
シリアで福音の教えが広まった要因の一つに、ローマ帝国が70年にエルサレム神殿を破壊し、130年にも迫害を加えたことでパレスチナのユダヤ人やイエスを信じる信者が離散し、国外、特に反ローマのパルテア国に入ったことがあります。
2. シリア語が東方地域に伝わる
シリア語はエデッサで使われていた言葉で、ここでシリア語新約聖書が分冊から訳されたと考えます。これをペシッタ訳あるいはぺシタ訳聖書といいます。ペシッタとは「直訳」とか「簡単な」という意味で、誰もが読めて信仰生活に役立つものでした。
現在の南インドの使徒トマス教会の礼拝では、シリア語聖書やシリア語での典礼書が使用されています。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
Christoph Baumer『THE CHURCH OF THE EAST』2006 I.B.Tauris
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