西アジアから東方に福音が広がる
紀元1~2世紀の西アジアに福音が広まった要因は、散らされたイスラエルの離散の民の存在が大きかったといえます。旧約聖書に書かれているように、アッシリア帝国による北イスラエルやバビロン帝国による南ユダ王国の崩壊と捕囚、離散によって、イスラエルの民は世界に散らされました。離散が離散で終わるのでなく、メシアによってやがて神の民の救いの再興がなされるとの神の約束と、異邦人に救いが及んでいくとの預言の通り、離散と追放は将来の救いにつながることでした。
離散の民の中からは、メシアが地に来られるとの希望が起き、ユダヤの三大祭りにはエルサレムを巡礼していました。1世紀のエルサレムに過越の祭りと五旬節に来ていた民の中には西アジアの者たちも多くいました。
中には東方から交易商人として来ていた商売人もいました。ルートは陸路や海路が紀元前から開けており、海路ではチグリス川やユーフラテス川を利用して途中途中で福音を伝え、アラビア湾を抜けてインドへと運ばれていきました。
新約聖書の使徒2章9節には「パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア・・・」と書かれ、パルティアからも聖霊降臨日には多くの巡礼者や商人がエルサレムに来ていて、信者が起きました。彼らは帰国先でイエス・メシアの来臨と福音を伝えました。
パルテア王国は、紀元前1世紀にはギリシャ語からペルシア語を公用語とし、アラム文字(これは当時の国際商業文字で、中央アジアではソグド人のソグド文字、アラビア文字、ウイグル文字、モンゴル文字などの元でもある)を用い、ペルシア化し、弓矢を使った騎馬戦術を得意としていました。この戦術に対しローマ帝国は恐れを抱きました。前53年にローマがペルシアに敗退したほど、当時のペルシアは強大でした。
西アジアの言語であるアラム語は、古くは前10世紀ごろから使われ、ダニエル書にも使われています。前538年にペルシアの王キュロスがユダヤ人に帰国命令を出したのもアラム語でした。アラム語はパレスチナでも語られており、新約聖書時代にもイスラエルのユダヤ人はへブル語とともにアラム語も使用していました。「アバ・父」やイエス・メシアの十字架上の言葉「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」もアラム語でした。
1世紀にはシリア北部のエデッサに東方教会(正式には東シリア教会)や神学校が建てられ、シリア語が発達しました。エデッサの国はオスロエネ王国で、キリスト教最初の王国といわれています。
景教の源流はここで生まれました。この地に福音を伝えたのは使徒トマスや70人弟子の一人のシリア語名でアダイ<タダイ>やマリらで、教会を創設し、多くの信徒によってさらに東のパルテアやインドへと宣教を展開していきました。
シリア語は、大秦景教流行中国碑にも多く刻まれ、その中に「アバ(訳せば、父、祖父)」も見え、景教徒の文献や墓石にもシリア語が使われていました。シリア語は中国、モンゴル、満州にまで広がっていきました。東方世界に福音が広まった要因の一つには、シリア語の普及があります。それは西側世界も同様のこと、ギリシャ語が普及していたからです。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
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