東方教会の特徴
1. 迫害と殉教、離散によって修道院を創設し、そこでの聖書の学びと霊的養いを発達させた
紀元後、ローマ帝国領のユダヤから多くのメシア信仰者たちが迫害を逃れて東方に向かったため、信徒たちが増えていきました。一方、339年から379年、420年、438年のペルシア帝国内では、皇帝やゾロアスター教徒からの迫害や大虐殺によって多くが殉教し、背教も起きました。逃れて離散した信徒たちは山麓で修道院を作り、信仰を守りました。
年代は下り、唐代中国の女帝、則天武后が帝位につくと「聖母」「聖神皇帝」と仏教徒らからあがめられ、景教徒たちは迫害に遭い、滅亡するかのようであったと景教碑文は刻んでいます。845年ごろには中国の武宗皇帝による景教徒迫害と殺害、国外追放と離散もありました。景教碑や各文書類が土に埋められ、焼却させられたりもしました。
2. 文字を発達させた
現地語に聖書を翻訳して宣教するために、シリア文字が東方各地で普及しました。文字は聖書翻訳と宣教、信徒教育のために必要不可欠で、そのために文字を作成。紀元前からパレスチナではアラム語が語られ、アラム文字からシリア文字へ、それからソグド文字やウイグル文字、モンゴル文字が作成されました。景教碑文のエストランゲル(丸いの意味)古シリア文字、ネストリアン字体、ヤコブ派字体など。
ザビエルの手紙には、インドで聞いた言葉はカルデヤ語で、「アレルヤ」と言っていたとあります。現在の南インドの使徒トマス教会の礼拝では、シリア語聖書やシリア語の典礼書が使用されています。
中国景教徒たちはシリア文字を使っていました。その証拠に、碑文や墓石類にシリア文字や聖句が刻まれています。シリア文字は22文字で、へブル文と同様に右から書いていきます。景教碑冒頭のシリア語からその一部を紹介します。
2000年6月21日付毎日新聞大阪夕刊で、古代シリア語聖書抄録が敦煌莫高窟で見つかったとの共同通信社の報道がありました。シリア語聖書は中国の元代(1271~1368)のもので、縦19・8センチ、横30・8センチの大きさの白紙に手書きされたものとあります。
3. 修道院から諸学問を発達させた
神学、医学、礼拝賛美学ほかの学問が発達しました。修道院で聖句を書いて覚えたり、祈りや賛美の生活をしたり、家族への聖書教育も規則に従って行われていました。最初に始まったのはエデッサ神学修道院で、362年に召天したマール・アウギンが創設し、そこから指導者たちが各地に多くの修道院を建て、東方への宣教を担いました。さまざまな要路により、シリアからアルメニアへ、ペルシアへ、インドへ、中央アジアへ、東アジアへと広めました。
マルコ・ポーロ(1254~1324)はアルメニアのチグリス川上流にあるモスルについて、そこに大きな東方教会があることを述べ、大商人の交易活動や祈りをする民であるとも伝えています。モスルは『元史』巻63「地理志」には毛夕里とあります。
「大アルメニアの南東の国境にはモスル王国が接している。きわめて大きな王国で、多数の種類の人々が暮らしている。・・・ネストリウス派とヤコブ派のキリスト教徒の人々もおり、アコリと呼ばれる総大司教がいる。・・・高位聖職者を任命し、インドやバウダ[バグダッド]やカタイ[中国北部]のいたるところに送り込んでいるのである。・・・この国にはモソランと呼ばれる大商人たちがおり、大量の香料や真珠や金糸織りや絹織物を取引している」(『マルコ・ポーロ 東方見聞録』[岩波書店、2012年]より)
モスルは紀元前から旧約聖書の舞台でもあり、ヨナ書の主人公ヨナの墓や預言者ナホムの墓ともいわれるものもあり、モスルの対岸にはニネベ(クルド人からはニネヴェ、アッシリア人からはニネワと呼ばれている)があります。多くのイエス信徒もここにいて、ここが東方教会の拠点ともなりました。ちなみに、東方見聞録で「ネストリウス派」の用語が出るようになりました。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
『マルコ・ポーロ 東方見聞録』(岩波書店、2012年)
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