マニ教と景教
にせ預言者たちに気をつけなさい。・・・あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。(マタイの福音書7章15、16節)
人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、「私こそキリストだ」と言って、多くの人を惑わすでしょう。(マタイの福音書24章4、5節)
当時のペルシアから、中央アジアや中国国内に入り込んで社会に認められ、自分たちの名を上げて世界宗教になるよう企てた異端カルト集団にマニ(漢訳で摩尼、摩尼光佛)教があります。各地で発見された遺物でその痕跡を見ることができます。
探検家のル・コックがトルファンで発見したものの中にマニ教のものがあります。
絹に描かれた蓮台に十字が描かれているのはマニ教徒のもので、それはマニ教会堂の壁画から発見されていること、蓮台に描かれるのは景教にはないこと、それが混交宗教(マニ自身がブッダであり、イエスであると宣言した)であるマニ教の特徴といえます。十字の形は景教徒たちのシンボルですが、それを勝手に盗作して混交宗教化したと考えられます。
マ二は(216年に今のイラクで生まれ、274年ごろにペルシアで処刑死、別の説もある)、伝説によれば、両親は宗教的幻覚者で、12歳の時に啓示を受けて宗教に目覚め、24歳で再啓示を受け、翌年から布教を開始。愛読書は仏典、新約聖書の福音書と黙示録、旧約聖書を自分流に解釈し都合よく混ぜ合わせ、自らを仏、メシアとし、イエスよりも偉大な最終預言者としました。
実父をヨセフ、実母をマリアとし、マ二をメシアとする階級制度を作り、弟子たちに自分を求めあがめるように仕向けたようです。マ二は最初の布教でインドまで行き、当時の王に迎えられ、帰国して弟子たちをアフリカやヨーロッパにまで派遣して教団を大きくしました。
マニ教は当時の人々をマインドコントロールさせ、教祖マ二を崇拝させる破壊的カルト宗教でした。旧約聖書に預言されたメシアこそマニで、十字架について死ぬのもマニであると説きました。
その教えは、光と闇、善と悪を極端に強調する二元論で、メシアが善人を育成し父なる神に導くというものでした。『摩尼光佛教法儀略』には明暗の二元教が説かれ、マ二の肖像画が掛けられて崇拝していたことが書かれています。教えの背景にはゾロアスター教やグノーシスの教えがあるともいわれます。
ベゼクリク38石窟寺院の壁画には、3本の樹が描かれ、その実が信徒を指して多くの実を結ぶことを示唆しています。別の壁画には、ベーマという「座」を意味する絵が描かれ、やがて最後の審判の時にマニ自身がそこに座すると書いています。また、アラム語で書かれたマニ教書『大福音書』には、イエスがヨハネ福音書で語られた、天の父のもとから遣わされるパラクレトスなる聖霊こそマニであるともいいます。
中国へは唐代の則天武后の延載元(694)年に伝わり、12世紀ごろまで宣教師を派遣していました。最初の宣教師は拂多誕です。長安や各地に光明寺という会堂を建てました。今唯一の会堂として福建省晋江市の草庵摩尼教寺があります。
漢訳された彼らの用語には、父なる神を「光明慈父」、イエスを「夷數光明者、明子」、聖霊は「浄風」とあるものの、景教の漢訳と似ていますが、違いは「三一」がありません。
探検家のスタインやペリオらも彼らの遺物を発見しています。日本にもマニ教絵画が幾つか伝わっています。この絵は山梨県の栖雲寺に伝わった絹製のもので、左手で蓮台の十字を持つ仏教的マニ教菩薩像です(『マニ教絵画』大和文華館発行、2011年5月)。
いつの時代も偽預言者、反キリスト、異なる福音が出回ります。新約聖書は、それらの出現に対する対策や対応などが教えとして書かれたものでもあります。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
羽田亨著『西域文明史概論』(弘文堂書房、1931年)
ル・コック著『中央アジア秘宝発掘記』(木下龍也訳、中公文庫、2002年)
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