唐代景教最初の宣教師、大秦国の阿羅本について
阿羅本は大秦國の人で読みは不明。アラホン、アラベン、アブラハム、アルワーン、アロペン、ラバンなどの読みがあります。ペルシアからシルクロードで入唐した景教徒初代宣教師。生没年は不詳。
景教碑文には唐の太宗皇帝(598〜649、在位626〜649)の時代に阿羅本が大秦国から来唐し皇帝に会い、景教を伝えたとあります。阿羅本の肩書は大徳・上徳、大法主とあり、大法主はトップのリーダー大主教のこと。大徳は12冠位の最高位で皇帝に接見できる立場で、皇帝に景教を伝えて後に受けた冠位と考えられます(日本人では小野妹子が大徳の冠位を受けました)。
景教碑には他に大徳の肩書がつく大徳及烈、大徳曜輪もいます。
では大秦国とはどこの国かですが、一般には東ローマ帝国を指し、その属国であるユダヤとも言えます。大秦景教宣元本経に「大秦国那薩邏」ナザレと漢文で書かれており、ユダヤの地を指して言っているとも言えます。初期の景教徒たちは、遠く西アジアから極東の東アジアに来ました。
阿羅本一行は、大変険しく困難な中、宣教目的地のアジア最大の国、中国を目指し、福音を伝える使命を持ってやってきました。彼らが真経(聖書)と像(メシア画のイコンか?)を携え、太宗皇帝に献上したのが635(貞観9)年のことです。
中国の史書、『唐会要』(961年に完成)巻49大秦寺の項には、「ペルシア僧の阿羅本が遠く経と教えを携えて京(長安)に来る」とあり、像は記述していません。
それでは、阿羅本が皇帝に何を献上し何を語ったのかが問われます。この2つの文献からは、経・教・像の3点が挙げられます。経は聖書で、教は聖書や景教の教えの教理書で、像は碑文にしか見られませんがイコンと考えられます。イコンは聖画像のことで、特にメシアの聖画であろう。イコンはギリシア語でエイコーン・神の似姿で、神の真の似姿は神の御子イエスであり、メシアを画にして救いを想起したのであろう。現在もメシアの聖画がキリスト教書店で売られています。
碑文には、阿羅本一行は太宗皇帝に会い、3年間、書殿で経である聖書を翻訳し、皇帝自身に道(景教の教え)を伝えたとあります。皇帝は道を聞いて良く知り得た結果、正式に伝道を許可しました。それが638年のこと。
900年代に作成し完成した『唐会要』は何を底本に記述したのか。第一は景教会に残されていた景教碑と碑を撰述するに当たっての書物なのか。第二は皇帝側に保存されていた記録書なのか。初代宣教師と皇帝や大臣級の人物との3年間の質疑応答の記録書があるはずと考えると、その発見に期待したい。
中国宋代(960〜1279)に敦煌の石室で発見された『序聴迷詩所経』(636年ごろの作)と『一神論』(642年ごろの作)は阿羅本の作と考えられ、内容から見て、長安の翻訳書殿で翻訳の推敲中、未完成のものと思われます。もちろん阿羅本一人だけが作成に取り掛かったのでなく、複数のペルシア人の景教徒随行者か、現地語に精通したソグド人の景教通訳者たちがいたことは当然考えられます。
景浄が著した「尊経」の末尾には「阿羅本」の名があります。太宗皇帝の時代の貞観9年に西域の大徳僧、阿羅本が、中国に来て翻訳したものを皇帝に献上したことが書かれています。530部が翻訳されていて、30部余りを景浄が翻訳し、ほか多くの訳していないものがあると書いています。しかし、ここには一神論や序聴迷詩所経が書かれていないのが不思議です。
出典は景教碑、唐会要、尊経。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
旧版『景教のたどった道―東周りのキリスト教』
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