1999年10月12日に三浦綾子さんが召天された後、夫の光世さんは、一人で生活されていましたが、秘書の山路多美枝さんが献身的に手助けされていました。三浦綾子記念文学館の高野斗志美初代館長が急逝された後、光世さんは2代目館長に就任。文学館運営の責任や講演、執筆活動と超多忙な毎日が待っていました。その多忙の合間を縫って、旭川めぐみキリスト教会での三浦綾子読書会には、ほぼ毎回出席され、課題図書の創作秘話などを語ってくださいました。ご自宅が教会から徒歩2分の近距離ですので、いろいろな機会にお会いできました。
ブラジルの中田智之宣教師が来旭されると、将棋が趣味の光世さんは、中田宣教師との対局をいつも楽しみにされていました。一度だけ、光世さんと中田宣教師をわが家にお招きし夕食を共にできたことは、懐かしい思い出です。
光世さんは、私に会う度に決まって言われた言葉があります。「牧師になっていただき、本当にありがとうございます。毎朝、もっと主の働き人が起こされ、この国の津々浦々に十字架の付いた教会が建てられることを切にお祈りしています」と。この温かい言葉は、私の心に大きな励ましとなり心にしっかりと刻まれています。
光世さんが晩年祈られていたことは、主の働き人が多く起こされること、国中にキリストの教会が増え広がることでした。
確かに現在の日本は、もっと主の働き人が必要です。東京基督教大学(TCU)国際宣教センターによる教職者の年齢分布(2015年)によりますと、全教職者のうち50歳未満が約千人しかいないのに対し、50歳以上が実に約9千人と9倍もいるのです。教職者の平均年齢が68歳、兼務などでカバーされている教会が930教会、牧師のいない教会は1230教会という驚くべきデータが報告されていて、あぜんとさせられます。日本の近未来が本当に心配になります。
光世さんは毎朝の祈りの中で、現在の必要を示され、主の働き人が起こされることを祈っていたに違いありません。
2013年4月、私は旭川めぐみキリスト教会を定年で退任し、札幌に移り住みましたが、光世さんと旭川で22年間親しい交流が与えられたことは、何物にも代えがたい大きな恵みでした。
綾子さんは夫の光世さんに対して、著作の中で以下のように記されています。
私はクリスチャンとして、甚だ怠惰な人間だと、いつも心から思っている。と言うのも、傍らにいる三浦が、事ごとによく祈るからである。信仰のこと、健康のこと、教会のこと、牧師や信者たちのこと、近所の人たちのこと、世界の平和のことなど、定まった時間に祈ることのほかに、三浦は随時感謝の祈りを捧げる。(『心のある家』)
こうしたユーモラスな言葉を、三浦はよく言うのだが、これがどれほど家庭を明るくし、二人の間を円満にしていることか。(『それでも明日は来る』)
三浦などは、「いいじゃないか、死ぬということは。死んだら、罪を犯す心配もないし、天国に入らせて下さるという約束はあるし。天国では、もう死ぬことはないんだからね」と、輝いた顔で、永生の希望を語る。わたしは、とてもそういうところには至らない。(『光あるうちに』)
光世さんは、私が札幌に転居した翌14年10月30日、敗血症により召されました。
光世さんの最期については、秘書の山路さんから直接お聞きしましたので、紹介させていただきます。
90歳の高齢になられ、三浦綾子記念文学館に出向くことも、講演も、執筆などもほとんどなくなった光世さんは、何をするのでもなくぼーっとされていることが多くなりました。夏の疲れが出て、食欲もなく、かかりつけの佐藤内科医院で診察し点滴治療を受けました。「1週間くらい入院されたらどうでしょう」との勧めがあり、旭川リハビリテーション病院を紹介されました(入院した病院も、担当の丸山純一医師も、綾子さんが召されたときと同じでした)。
10月1日に入院した直前、三浦綾子記念文学館の茶話会のカラオケ大会があり、光世さんも出席され、懐メロなど5曲をお元気に歌われました。(中略)召される3日ほど前、丸山医師から「ここ3日が山です。親しい方々にはすぐ知らせてください」と告げられ、ごく親しい方々に伝えて病院に来ていただきました。ご本人はニコニコと皆さんと談笑されていました。
召された30日の午前中、光世さんはすごく良い笑顔で、私の16年間の秘書としての仕事を感謝し、綾子さんの死や葬儀、営林署時代や教会生活、故郷・滝上での生活などをずっと話されていました。私は午後1時ごろ文学館に出掛け、午後3時ごろ病室に戻りますと、光世さんはすやすやと眠っておられましたので安心して帰宅しました。夜8時ごろ、丸山医師から「大至急病院に来てください」との連絡がありました。急ぎ病室に行きましたが、光世さんは既に意識がなく、「光世先生、光世先生!」と呼び掛けましたが何の反応もありませんでした。夜9時半ごろ静かに眠るように召されました。
光世さんは、綾子さんが召されたのと同じ10月、同じ旭川リハビリテーション病院で、同じ担当医師の手厚い手当を受け、特別な痛みや苦しみなどもなく、静かに自然に天に旅立ちました。私は、光世さんの最期の様子を聞いて、いかにも光世さんらしい最期だと安堵(あんど)しました。三浦綾子というクリスチャン作家が、これほど尊く用いられた背後に、夫の光世さんの存在と支えがあったことをあらためて覚えます。三浦光世という篤信のキリスト者を、尊く豊かに用いられた慈愛の父なる神の御名をあがめます。(続く)
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