三浦綾子さんが77歳で召されたとき、夫の光世さんは75歳。現在では、後期高齢者の年齢ですが、光世さんの新しい歩みは75歳から始まりました。あの信仰の父アブラム(アブラハム)が、神の声に従い生まれ故郷を離れたのと同じ年齢です。「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、75歳であった」(創世記12:4)
綾子さんの死が大々的に報道されたこともあり、三浦文学に大きな関心が集まり、翌年の三浦文学ツアーには全国から多くの参加者がありました。ツアーは、三浦綾子記念文学館や綾子さんゆかりの場所を見学し、旭川めぐみキリスト教会を会場に光世さんのミニ講演と交流の時を持つという内容でしたが、参加者たちには大好評でした。光世さんの自宅が、会場の教会まで徒歩約2分という利便性もありました。このような三浦文学ツアーが毎年何回も実施され、さらに全国から光世さんに講演依頼が殺到しました。光世さんは、初代秘書の宮嶋裕子さんの助けを得て、全国各地に出掛けて講演されました。綾子さんの死後に出版された本は、光世さん、綾子さん、それぞれのものに共著を含めると10冊を超えました。
綾子さんが亡くなった後、光世さんが直ぐに書いたのは光文社から出版された『死ぬという大切な仕事』です。死についての諸相をつづった本で、綾子さんの死をはじめ、家族、親族、友人、知人、信仰者の死について言及しています。本書の最後で、光世さんは「死んだらどうなるか~あとがきに代えて」に次のように書いています。
いずれにせよ、私たちの想像をはるかに超えた時間と空間が、未来に備えられているのは確かであり、それだけに、この貴重な人生を畏れをもって生きなければならないということであろう。ということになると、綾子が死んで、いま、どこでどうしているのか、さだかではないとしても、再会の望みをいつも確認していてよいのであろう。むろん、この世における妻としての存在を、そのままひきずるということではなく、もっと確かな存在としてある。そのためには、やはりこの世における生き方が問われるはずである。そして所詮(しょせん)、赦(ゆる)されなければどうしようもない人間であることに思いは至る。帰するところは、やはりキリストの十字架を仰ぐ以外にはない。
本書は綾子さんが亡くなってから約半年後に出版されました。この他に『希望は失望に終わらず』(致知出版社)、『三浦綾子創作秘話』(主婦の友社)、『綾子へ』(角川書店)、『妻 三浦綾子と生きた四十年』(海竜社)、『二人三脚』(福音社)、『青春の傷痕』(いのちのことば社)などがあります。実に光世さんが75歳を過ぎてから書いた著作群です。綾子さんとの死別の悲しみの中にあっても、驚くほど精力的に執筆活動されたことが分かります。逆にその忙しさが、光世さんの深い悲しみをやわらげ、癒やしを与えたともいうことができるかもしれません。さらに、三浦家には来客が絶えず、時には1日に30人近い人が訪れることもあり、長い相談の電話も度々あったことなどを、初代秘書の宮嶋裕子さんは証言されています。
以前、本コラムの第6回でも少し触れたことがありますが、三浦綾子記念文学館の初代館長、高野斗志美氏は、綾子さんが召されてから3年後の2002年7月7日に病床洗礼を受け、その2日後に召されました。洗礼を受けた7月7日は、高野氏の73歳の誕生日。高野氏は、旭川北高校の教諭や東海大学、旭川大学の教授、学長と教壇一筋に歩んできた教育者であると同時に、文芸評論家としても幅広く活躍されました。
がんで闘病されていた高野氏は、召される少し前に、友人で三浦綾子記念文化財団副理事長の後藤憲太郎氏に「洗礼を受けたい。できるだけ早く。今は神様の方に手を差し伸べている心境です」と訴えられました。早速翌日、後藤氏は所属していた日本基督教団豊岡教会の久世そらち牧師と共に訪れ、高野氏は病床で次のように語りました。
私は文学で生きて来ましたから文学のことばで表現しますが、ドストエフスキーに傾倒したものとして、自分の中の善と悪に決着をつけようとして来ました。今イエス・キリストを仲介者として、神に委ねたい。これが私の懺悔(ざんげ)であり、告白です。(中略)「アーメン」という、このことばをずーっと言いたかった。(宮嶋裕子著『三浦家の居間で』より)
高野氏の突然の死は、大きな痛みであり悲しみでしたが、最後にキリストを受け入れて天に召されたことに、関係者一同大きな慰めと安堵(あんど)を覚えました。高野氏は、三浦文学の本当に良き理解者であり、また強力な援助者でした。綾子さんのデビュー作『氷点』が朝日新聞の千万円懸賞小説に入選した直後、綾子さんに直接「原罪とは何ですか?」と真正面から質問されたのが高野氏でした。
高野氏が召されたことにより、2002年10月16日の三浦綾子記念文学館第2回理事会・評議委員会で、光世さんが2代目館長に選任されました。早速翌年1月から新館長、光世さんによる「小さな講演会」がスタートしました。同年9月には、開館5周年記念特別講演会として、星野富弘さんが「私の北極星」と題して感銘深い講演をされ、会場の旭川パレスホテル(現・アートホテル旭川)に約千人が詰め掛けました。光世さんは館長就任以来、文学館の企画する多彩な展示や行事などに献身的に関わられました。綾子さんの死後、間もなくして新しい秘書の山路多美枝さんが右腕となって働かれるようになりました。
館長になった光世さんは、来館者一人一人に親しく声を掛け、館内の展示を説明し、喫茶室でコーヒーをごちそうすることもありました。記念撮影も快く引き受けられ、来館者たちは光世さんの温かいもてなしに大変感激され、喜ばれていました。また、光世さんは非常に向学心の強い人で、NHKのラジオ英語講座を活用し独学で英語をマスターされました。光世さんが85歳の頃、私が夕方訪問したとき、居間からNHKのラジオ英語講座の大きな音声が聞こえてきました。「光世さんは、80代半ばでも英語を学び続けておられる、すごい!」と感心したことがありました。
綾子さんが召されるまで、口述筆記、マネージャーとして三浦文学の重要な役割を果たしてこられた光世さん。最愛の妻、綾子さんの死を契機として、それから約15年にわたり、三浦文学を世に広める啓蒙的働きと、三浦綾子記念文学館の活動・運営全般に尽力し続けられました。綾子さんは還暦以降の執筆作品がそれ以前よりはるかに多く、驚いたことがあります。それに似て、光世さんは75歳から実に目を見張る働きをされたことに大きな励ましを頂いています。三浦夫妻は1971年に『氷点』などを執筆した旧宅(雑貨店)を、世界的な宣教団体OMF(国際福音宣教会、当時・国際福音宣教団)に寄贈しました。
そのOMFの第5代総裁、オズワルド・サンダース氏の『熟年の輝き』(いのちのことば社)に次のような記述があります。
青年時代のカレブは、鷲(わし)のように空をかけめぐった。中年時代には走ってもたゆまない技能を習得した。しかし、老年期には歩いても疲れないでいられただろうか。彼が最大の勝利を博したのは、年を重ねて老人になってからだったのである。カレブは、しばしば老年の悲哀とみなされるものを輝かしい勝利に転換できることを立証した。85歳になっても、老いを知らない、冒険心のある若々しさを示している。40歳の英雄は、85歳になっても、以前とまさらぬとも劣らぬ英雄である。カレブにとって、老年は老衰ではなく、攻勢であり達成だったのである。同時代の生きてきた後輩たちの多くが静かな隠退と余生だけを考えていた時、カレブは、ずっと若い人を驚かすような、大きな要求をする新しい冒険を計画していた。彼にはなお、青年のような力強さと意気込みがあった。(119~120ページ)
光世さんは、カレブのような身体的壮健さはなく病弱であり、自ら何か冒険をしようと計画したわけではありません。しかし主の御心に静かに従い、召されるまで精力的に、三浦綾子記念文学館の館長としての働きと講演・執筆活動などをされたところに、カレブと同じような信仰的生き方を見ることができます。
そして、その光世さんが館長に就任したころ、三浦文学に特別な使命を帯びた一人の青年が彗星(すいせい)のごとく現れ、旭川にやってきたのでした。(続く)
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