イエスがそこを出て、道を通って行かれると、ふたりの盲人が大声で、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。・・・イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか」と言われると、彼らは「そうです。主よ」と言った。そこで、イエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。すると、彼らの目があいた。イエスは彼らをきびしく戒めて、「決してだれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。ところが、彼らは出て行って、イエスのことをその地方全体に言いふらした。(マタイ9:27~31)
大いに期待して買った愛媛県産の「せとか」入りの炭酸飲料が、果汁わずか1パーセントで、がっかりしました。しかし同時に、クリスチャンである私のイエス様は何パーセント?と考えさせられました。パウロは「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2章)、100パーセントと告白しています。中世の聖人、フランチェスコも、歴史上、キリストに最も近づいた人物といわれました。この2千年の間、クリスチャンがキリストに似た者とされているかは、大きなテーマです。
この盲人の癒やしを通して、自分のイエス様は何パーセントか、心を探り、神の恵みを引き出すには、どうすればよいか考えてみましょう。
1. イエスの御心に通じる信仰とは何か?
イエスが「あなたの信仰があなたを直した」と認める信仰は何でしょうか?2人の盲人は、イエスが来ると大声で「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びながらついて行きます。ここで、自分自身が求めないと癒やしの恵みは起こらないということが分かります。
イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか」と問われると、「そうです。主よ」と答えています。イエスは彼らの目に触って「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われ、癒やされました。このことから、イエスが2人の盲人に求めていた信仰は、非常にシンプルで、ただ「イエスにはできる」と信じることだけだと分かります。私たちの努力ではなく、イエスを100パーセントの救い主、癒やし主と信じることです。
主は「だれでも、この山に向かって、動いて海にはいれと言って、心の中で疑わず、ただ自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります」(マルコ11章)と語っています。主が求めておられるのは、疑わないで信じる信仰です。イエスとの関係、信頼の深さです。どこまでもイエスを信じる者となりましょう。
2. その信仰の具体的な中身は?
あなたの信じているイエスは、聖書の中のイエスの何パーセントでしょうか?現代人の知識によって、イエスを薄めてしまっていませんか?世の中では、自らクリスチャンと言いながら、主の癒やしも、十字架の贖(あがな)い、死の力を打ち破った復活も信じないクリスチャンが、たくさんいます。
そうであってはいけません。祈っても癒やされない大きな原因は、祈られても治らないと信じているからです。不信仰でイエスを受け止めると、その通りになってしまいます。自分の理屈や常識でイエスの働かれる場所を狭めるのではなく、聖書の語る通りのイエスを、イエスは何でもできると、信じ受け入れることです。
子どもの頃、「何でもできる、私のイエス様・・・」という賛美歌があり、皆でよく賛美しました。この盲人のように、シンプルに、100パーセントのイエス、イエスにはできると信じましょう。聖書の御言葉通り信じること、それが勝利の秘訣です。
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