いつの時代でも、どの国でも、いくら聖書を退けようとしても、神の主張を無視するわけにはいかなくなります。ずっと以前、日本に最初に宣教が試みられたとき、幕府は次のような命令を出しました。
太陽が大地を暖める限り、キリスト教徒は誰であれ大胆不敵にも日本入国を企てるべからず。みな知るべし。スペイン王自身であれ、キリスト教の神であれ、あらゆる神に勝る偉大な神であれ、この命令を破るものは、その首をもって応えらるべし。
後に、聖書のメッセージは日本に入ったばかりか、第二次世界大戦後の10年間で、1千万冊を超える新約聖書と聖書全巻が日本で配られたのです。ところが日本のクリスチャンの指導者から以後なお3年間で配るため、あと1千万冊を送ってくれるようにと要請がありました。1日のうちに神(天皇のこと)を失った人々にとって、神の言葉・聖書に対する需要は大きかったのです。
日本の宗教制度は何世紀もかかって入念に発達してきたものでありますが、一晩で崩壊してしまいました。天の至上者と人間とを結ぶ絆としての神であると考えられていた天皇が、自分はもはや神ではないと宣言したのです。戦争に負け、帝国を失い、神もいなくなってしまった人たちが、イエス・キリストのメッセージを知りたいと願ったのは当然でしょう。
東洋の教会の中で、スマトラのバタク教会の物語ほど素晴らしい話はほかにありません。レニシュ宣教会のノーメンセン博士は、1864年バタクの酋長に近づいて、人々の間で2年間一緒に住む許可をくれるように頼みました。2年が終わり、酋長は彼のしてくれたことに感謝をしましたが、彼が教えたことはすべて自分たちの部族の法律に入っていることなので、もう帰ってもらいたいと言いました。「殺してはならない、盗んではならない、姦淫してはならない」など、あなたの教えてくれたことで私たちの知らなかった新しい教えは何もありませんと言いました。
ノーメンセン博士は、彼らの道徳的水準が低いのが気になり、神の禁止律法に焦点を絞って教えたため、バタク人の心の中にある罪の自覚を呼び起こすことを怠っていました。彼は道徳律法が必要であることを強調するのをやめ、キリストの救いの力を伝える決意をしました。酋長にあと6カ月でよいから滞在を許してくれるように願いました。この期間が終わって、酋長が再び彼の所にやってきて「この数カ月、あなたは私たちに新しいことを教えてくれました。私たちは、自分では自分の作った法律でさえ守れないことが分かりました。私たちはイエス・キリストを主として迎えたい」と言いました。
何千という人たちが救い主を受け入れ、何十万という人数のクリスチャン共同体が出来上がり、およそ千の教会では聖職者として何十人もの牧師、さらに数知れないほどの一般信徒のリーダーが働いています。オランダ聖書協会から送り出された初期の偉大な学者の一人が、バタク語に聖書を翻訳したことが、他と比べられないほどの発展をした基礎となっています。近くに住む多くのイスラム教徒がキリスト教の異常な繁栄に感動し、天国のような所に来て住んでいいかと求めたほどです。神のメッセージによってクリスチャンとなった男女の集まりから、自然発生的に天国が生み出されたのです。
アフリカは目覚めつつある大陸です。世界の他の地域に見られないような速度で、識字教育が進んでおります。第二次世界大戦直後に、少なくとも4千万人の人たちが一世代の間に新しく読み書きができるようになりました。その計画はすでに目標を超えました。いわゆる暗黒の大陸といわれていたあらゆる場所で、人々が目覚めています。こうして、部族の後ろ向きな生き方や、帝政主義的慣習、経済的奴隷制、社会的差別と戦っているのです。
中には実際の敵、あるいは想像上の敵に対して盲目的に立ち向かっているだけの人たちもいますが、もっと聖書を送ってほしいと嘆願している人たちもいます。ルワンダにいる宣教師が「どうしたらいいんですか。私が割り当てとして受け取った聖書は、新約聖書40冊だけなのに、ここには神の言葉が欲しいと言っているルワンダ人が4千人もいるのです」と訴えています。ジャングルの中に散らばっている村々にも、鉱山の村落にも、砂漠のキャラバンの長い列にも、アフリカでは神の言葉が必要なのです。聖書は部分訳を含めて350のアフリカの言葉や方言に翻訳されましたが、まだ300の言葉には部分訳すらないのです。
聖書を運ぶトラックも、本屋も、聖書を支給してくれるミッション本部もなくても、御言葉を配布するために神から召されていると感じている人たちがいます。アンゴラのウンブンドゥ人、チワレは、ポルトガル人に捕まえられて、ギニア湾のサン・トメ島で強制労働を課せられました。しかし、その時にも、彼は賛美歌と福音書と使徒言行録を持っていっていました。夜になると雑魚(ざこ)部屋の小さな灯の光で、安い青い紙に、神の言葉を書いて、仲間に配っていました。たどたどしいものでしたが、新しい命を与えるメッセージでした。みんなが自分の家に帰ったときには、このつつましい働きのおかげで60人ものクリスチャン会衆が村には出来上がっていました。
聖書は、アフリカの人たちにずっと語り掛けてきました。聖書は何語であれ、心に語り掛ける言葉です。コンゴの小さなチルバ小学校のある一人の子どもが聖書の朗読に耳を傾けていました。その後すぐに彼は宣教師の所に行き、その本を貸してくれるように頼みました。彼はそれをもって、ジャングルの中の遠い村に住んでいる両親にそれを読んで聞かせたかったのです。「その言葉は私の心に穴をあけました」と言っています。神の霊の差し貫くような声は、今日何十万人というアフリカ人に話し掛けているのです。
ラテン・アメリカは、長い宗教裁判の歴史の中で「知らぬが仏」が最高という状況に無理矢理置かれていたため、コルポーターは人々の反対に苦しまなければなりませんでした。聖書は「触らぬ神にたたりなし」的な本なのです。
ペルーのあるコルポーターは、御言葉を教え、配布するためにジャングルの中の村や町に出掛けていきました。警察がそれをやめさせようとしましたが、できませんでしたので、彼を逮捕し、警察署に引っ張っていきました。コルポーターは失われた羊を求めている「良き羊飼い」の物語を告げ(ルカ15:4~7)、なぜここに来たのかを巡査部長に伝えました。部長は感慨深そうに聞いていましたが、「そうです、私もその失われた羊なのです」と答えました。
ラテン・アメリカのコルポーターたちは、主として市場で聖書を販売します。ボリビア山地の4千メートルを超える高地オルロのエンリケ・バサンには多くの人が集まりますが、市場に小さなテーブルを組み立ててその上に本を載せ、きれいなポスターを貼り、物珍しそうに寄ってくる人たちに世界で最も大切な本の話を始めます。
人が混んでおり、騒々しく売り手と買い手が掛け合いをしている市場で、主として福音書を売る努力をします。だれでも小さな本1冊買うのに数十円は使うことができますが、大抵の人は聖書全巻を買うのはちょっと考えてしまうからです。聖書は持ったらいけないと言われているから、余計にそうです。
聖書協会の方針では、福音書と他の部分訳の販売を勧めています。そうやって、まだ福音の届いていない心に種を蒔くのです。聖書全巻だけを売るコルポーターはクリスチャンしか相手にできませんが、福音書だけだったらまだ福音を聞いていない多くの人の心を捕らえることができるのです。
無知の中に育てられた狂信主義者は、真理が見えなくなっています。メキシコのモレロスで働いているコルポーターのバレンティン・ドランテスが、聖書を買うという約束をした人の家に招かれて行きました。ところが家に入るやいなや、2人の男が掘ったばかりの墓穴の所まで引っ張っていって、「お前の体に弾丸を撃ち込んで、蜂の巣のようにしてやり、そのあとでここに放り込んでやる。お前は『うその本を配っているからだ』」と言われました。
バレンティン・ドランテスは「いや、うその本ではありません。ここには良き訪れが書かれているのです。あなたたちに神様のおっしゃっていることを知ってもらおうと、神様が私をここに遣わされたのです。私は殺されてもかまいません。でも、裁きの座の前に立ったとき、キリスト以外に救われる道はないなどと誰も教えてはくれませんでした、とは言えませんよ」と強く言いました。
それからドランテスは彼を殺そうとする人に向かって、うそだと思われている本のちょっとだけでも読ませてくださいと申し出ました。メキシコでは臨終には、最後の一言を言う機会を与えるのが慣わしでしたので、彼にもその機会が与えられました。彼はヨハネ3章を開いて読み始め、それを終わってからヨハネ3:16の意味を簡単に述べ、この罪深い世の中に自分の息子を送らなければならないと思わせるほど、神は私たちを愛してくださるのだと説明しました。
一人が聞きました。「ところで、その愛とは一体何なのだ」。「もし許していただけるなら、この本に書いてある『愛』がどんなものか読んで差し上げましょう」とドランテスは答え、今度はコリントの信徒への手紙一の13章を読み始めました。これを読んで、神の愛について簡単に説明しているうちに、その家族の娘が泣き始め、こんなに美しい言葉を読んでくれた人を殺さないでと母親に頼みました。
母親はコルポーターに、その本を続けて読んでほしいと頼みました。それはそれまで誰も聞いたことがないものでした。ドランテスは続けました。彼の殺害者となるはずであった男はピストルを皮ケースに収め、眼を拭きました。彼の魂に入ってきた信仰の芽をもう隠しきれなくなっていました。数分後、彼は読むのを一時やめさせ、「もう怖がらなくていい。家に入って、もっと教えてくれ。どうも俺は今までだまされていたらしい。その本が本当はどんな本なのか知らなかった」と言いました。
*
【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏
世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。
宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。
本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。
ユージン・ナイダ
◇