「栄える」と「衰える」(increase / decrease)
ヨハネ3:30の「あの方は栄え(大きくなり)、わたしは衰え(小さくなる)ねばならない」の翻訳は簡単ではありません。これをそのまま他の言語に翻訳することはできますが、「あの人はでっかくなり、私はちっちゃくなる」という肉体的な意味になってしまい、霊的な意味にはなりません。
メキシコのマサテック人の間で働いていた翻訳者は、助手にこの文を翻訳するための語を尋ねると、「大きくなる」「小さくなる」という言い方を教えてくれました。しかし、この言葉は体の大きさ以外の意味は持っていません。
さらに頼んで、次に出てきたのが「高くなる」「低くなる」でした。これも同じように満足できませんでした。もう一度聞いて得た答えが「巨大になる」「ちっぽけになる」でした。どれもこれも問題がありました。それらの言葉には「大きさ」の意味しかなく、「重要性」という意味はありません。
最後に、捨て鉢になり翻訳者は助手に「この文はサイズのことを言っているんじゃなくて、一人の人がもっと重要になり、もう一人の人が重要でなくなる」という意味なんだと言いました。
「じゃあ、どうしてそう言ってくれなかったんですか。私たちは『その方はもっと首長らしく、私はもっと弟子らしくなる』と言います」というのが答えでした。この対比が、本当の弟子とはどんなものかを表しています。
スーダンの地に住むシルク人は、この大切なクリスチャンの成長を「その方は朝になって出てくる。私は夜になって出ていく」と表現します。キリストは明け方にもやの中から出てきてくださり、主としてのあるべき場所に座られます。一方、私たちの自己は次第に後退してゆき、無私無欲という闇の帳(とばり)に消えて見えなくなるのです。
「主」(Lord)
「主」という言葉はいろいろに翻訳され、神と人との関係を表すいろいろな面を教えてくれます。バリエンテ人は主を「ダブル場所人」と呼んでいます。それは、2人分の場所を取る人ということで、神は他の人よりも偉大であるということを意味しています。サン・ブラスの人たちはそんな言い方は不適切だと考え、「誰にも増して偉大な方」と言っています。
ペルーのアムエシャ人は主を「私たちを運ぶ方」と表現しています。これは、主がその民を支え、守るお方であるということを表しています。リベリアの幾つかの言語では、主は「人の所有者」と言いますが、奴隷を所有している首長のことを言っているわけではありません。その意味はもっと深いのです。
人が「人の所有者」となるには、まずその前にその人を「贖(あがな)った」ということなのです。これこそ福音の本質です。キリストは私たちの主ですが、私たちの贖い主であり、所有者だからです。贖われたからには、主人が必要であり、主となっていただいたら従うことです。
「神」(God)
「神」にふさわしい言葉を見つけるのは、なかなか困難なことがあります。一般的に、私たちは神についてはもうろうとした考えしか持たず、神はぼうっとしていて、遠いところに存在している方と考えているからです。それよりも、まずは自分たちを傷つける悪霊の方が心配なのです。そこで、悪霊をなだめるために時間とエネルギーを使ってしまい、神にお願いすることはあまりないのです。神などあまり確信が持てないからです。
神を表す言葉には時折、素晴らしいものがあります。例えば、北部コンゴのンバンザの人たちは Chuchu(チュチュ)を信じていますが、チュチュが世界と人類を造ったと信じています。そればかりか、チュチュは人類を愛しています。
ところがみんなはチュチュが嫌いで、チュチュから逃げていって、まったく忘れてしまっています。しかし、チュチュの方は人を忘れることはありません。このような伝説の中に、宣教師が使うことのできる真理が隠されています。
人間は神から迷い出てしまい、ずっと遠くまで逃げていってしまったのに、神はみんなのことを忘れてはおられないと説明できます。事実、独り子を送り、すべての人に、ご自身と和解することを求めておられるのです。
サン・ブラスの人たちにとって神は「私たちの偉大な父」であり、神を表すのにこの言葉を使っています。これは神の一面だけを強調している言葉ではありますが、最も大切な一面です。ペルーのチャンカ・ケチュア人は、神のことを「満ち足りたお方」と言っています。すべてのことに満ち足りて、反逆する人類にとっても十分に足るお方です。
キプシギス語では、神という言葉は Jehoba(ジェホバ)です。英語に似ていて英語から借用したかと思いますが、そうではなくて、このキプシギス語のジェホバは「偉大な支配者」を意味しており、これが昔からキプシギス語で神を表す言葉でした。
昔、ある宣教師が「神」という言葉と「息子」という言葉を覚えましたので、当然のことながら、「神の子」という言葉は簡単に使えると思いました。北部メキシコのタラウマラ語でもそうでした。が、この誇り高く無口な人たちは、この言葉がタラウマラ人のことを言っていると理解してしまいました。自分たちを「神の子ども」と見なし、他の外国人はみんな「悪魔の子ども」と考えたのです。
自分を誇るという意味ではアングロ・サクソンどころではありません。違っているのは、タラウマラ人はその考えを言いふらさなかったことです。自分らが優れていることはみんなが認め、明々白々であると考えていたからです。それでタラウマラ語の新約聖書では、キリストは「神のたった一人の息子」と翻訳しなければなりません。そうしないと、イエスがまるでタラウマラ人だったと考えられてしまうからです。
「人を偏り見る」(respecter of persons)
「人を偏り見ない」という句の意味ははっきりしているので、本当の意味が言葉の裏に隠れてしまっていることに気が付きません。ある意味では、神は人を重んじ(respect)られます。神は人の内面を重んじられるからです。
しかし神は、人を外面によって選んだりなさいませんし、人が個人的に認めてほしいという要求に沿って選ぶこともなさいません。その意味では、神は人を重んじられません。
エフェソ6:9の「神は人を分け隔てなさらないのです」(no respecter of persons)を翻訳するのに、メキシコのソケ語の翻訳では「神は見た目で人を選ばれることはない」となります。すなわち、神は外見をご覧にならず、心をご覧になるということです。ペルーのカシーボ人は「神はただ人の顔だけを見ない」と言います。顔を見ればその人の歴史が大体分かりますが、それでも悪い心は隠せるからです。
ファリサイ人がイエスを責めて同じ表現を使い「あなたは・・・だれをもはばからない方である」(マルコ12:14)と言っていますが、直訳ができないため、いろいろな翻訳があります。シピーボ語の翻訳では、「あなたの心の中では誰一人ひとかどの人物はいない」と書かれています。これは文字通りの意味ではなくシピーボの慣用句であって、この文の言わんとしていることをはっきり表しています。
イエスは、当時の宗教指導者にへつらうことをなさいませんでしたし、ラビ学校の威信を求めることもありませんでした。分け隔てをしないでメッセージを語られました。このように裁きと真理を大胆に語ることを、キプシギス人はぶっきらぼうに「賄賂(わいろ)なしで真理を語る」と言います。どこかの裁判所のように、正義といわれるものが競りに出されているようなところでは、「賄賂なしに真理を語る」という言葉は、人を見ないで神の真理を見る人を表すのにふさわしい言葉です。
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【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏
世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。
宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。
本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。
ユージン・ナイダ
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