神が啓示のために使われた語彙(ごい)には、心に関する言葉とか、教義上、重要な意味を持っている言葉だけではなく、日常生活で体験することを表す言葉も含まれています。それらの体験は天来の正確さで表現されています。「主がそう言われる」からであります。
「罪」(sin)
「罪」があるということは、何らかの道徳的規範があることが前提であり、罪は心の性質を表しています。罪はたまたま行った行為ではなく、魂そのものが持っている性向を表しています。罪に対する聖書の見方は、現在考えられているよりもずっと深いものです。聖書の言っている「罪」を表すためにいろいろな言語で使われている言葉を見ると、そのことは明らかです。
例えば、グアテマラのコノブ人は、罪人とは「悪い心を持った人」と言います。「悪い行いをする人」と呼ぶのでは、十分ではありません。たとえ行動は確かに心を反映しているとはいえ、神がまず関心を示されているのは心なのです。「悪意、殺意、姦淫・・・などは、心から出てくる」(マタイ15:19)からです。
サン・ブラス人たちは罪人について、もっとはっきり表現します。彼らは「心で悪いことをしている人たち」と言います。これは罪の本来の性質を表したものです。罪は目に見える行いではなく、悪い心から出る欲望であり、それがイエスの非難された罪なのです。
規範を破るということが「罪」という言葉には反映されています。ナバホ族は罪のことを、真っすぐな真理とは反対に「脇に除けられたもの」と言います。罪に対するこのような考え方は、ギリシャ語の paraptoma という言葉とそっくりです。これは、文字通りには「脇に落ちる」という意味で、普通は「罪過」と翻訳されています。ギリシャ語の hamartia は、直訳すると「的(まと)を外す」という意味です。これも、規範なりゴールなりに到達できなかった状態を表しています。
バリエンテ語では、「罪」という言葉を「有罪になる」と言いますが、これは罪を犯した結果を示す言葉です。
ある場合には、罪を表す土着の言葉は、いろいろな含みを持っていますので、その語を使う前には、その言葉の持つ詳細な意味をしっかり知っておかなければなりません。例えば、シピーボの人たちが、「罪」に当たる語として、hocha という言葉が良いのではないかと提案しましたが、これついてはよく考えてみなければなりませんでした。
この言葉は問題ないように思われましたが、ある日、翻訳者はある女の子が小さな陶器の水差しを割ってしまったあとで、私は hocha を犯してしまったと言っていたのを聞きました。そんな小さな水差しを割ったところで、それは「罪」といえるようなものではないと考えました。ところが、シピーボ人は hocha は本当に罪なんだと主張しました。そう言って、その言葉の意味を詳しく説明してくれました。
水差しを割ったときにも使えますが、それはその水差しが他人のものである場合に限るのです、と言いました。hocha とは、他人の持ち物を壊したときに使う言葉であり、それ以上でもそれ以下でもありません。しかし、この言葉は物質的な物を指すときに使うだけではありません。彼らの信仰では、神がこの世とその中のすべての物を持っておられる。だから、神の計画やその業を破壊する者は誰でも、hocha の罪があるのだと言うのです。
そんなわけで、あらゆる人の中で人を殺した者が hocha の罪が最も重いということになります。というのは、この世における神の最も大切な持ち物である人間を滅ぼしたことになるからです。破壊的で悪意を持った悪霊は hocha であります。悪霊は神の創造に反対し、有害だからです。たまたま起こった出来事を言う弱々しい言葉よりも、罪を示すこの言葉 hocha は、意味が非常に豊かで、神の贖(あがな)いの業の全体像を見せてくれたのです。
「偽善」(hypocrisy)
あらゆる罪の中で、イエスが最も強く非難されたのが偽善であります。偽善は罪の中で他の何にも増して、魂を破壊させ、ゆがませてしまう罪だからです。そればかりか、偽善者は信心らしさを装っていますが、その生活ときたら口先だけで、偽の見せかけを暴露しているからです。
偽善の二面性は3つのメキシコ先住民の言語で似たように表現されています。ミシュテク人は、偽善者が「2つの頭」を持つと言い、ツェルタル人は「2つの心」を、パメ人は「2つの口を」持つと言っています。オートボルタ(現ブルキナファソ)のモシの人たちは偽善者を「甘い口を持った人」と言います。これは英語で言う「蜜の入った言葉」(口先だけの甘い言葉、すなわちお世辞のこと)と大差ない比喩といえます。
ピーロ人は「ただ行動だけする人」と言います。これは英語に直訳するとちょっと違った意味になるかもしれません。ここで言っている本当の意味は、動機とか願望とかを無視して都合のいいことだけをする人のことを言っているのです。すなわち、行動が人格と分離してしまっているのです。
これは、私たちが見落としてしまいがちな偽善の微妙な一面を表しています。私たちは、偽善を、本来の性質を隠してしまうように計算された行動であると限定して考えがちです。ピーロ人にとって偽善とは、心や魂と歩調を合わせない無意識の行動まで含んでいるのです。従って、自分の仕事のためだけにお客を優遇するような商人は、基本的に偽善者なのです。
「偽善者」に当たる言葉の背景には、いろいろ面白い伝説が伝えられています。例えば、バリ語では、偽善者を「坊さんになった鷺(さぎ)」と呼ぶことができます。その土地の伝説によりますと、一羽の鷺が、魚を捕まえようと飛んでいましたが、水の渇きかけているある湖を見つけました。
その鷺は坊さんに化けて、死にそうになっている魚に「かわいそうに、こんなところで」と心配している様子を見せ、「私の長いくちばしに入れて、別の湖に運んであげよう」ととても親切そうに約束しましたが、結果は、その魚は鷺の胃袋までしか連れて行ってもらえませんでした。
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【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏
世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。
宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。
本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。
ユージン・ナイダ
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