「赦(ゆる)し」(forgiveness)
赦しとは、和解を霊的に伝達する手段です。罪の壁は、人をその創造者から隔ててしまいましたが、神がその御子の死によって表してくださった赦しによって打ち壊されました。しかし、この受けるにはもったいないほどの赦しを表現する適当な言葉は、なかなか見つかりません。
シピーボ語では、現地の助手が「見ないで通り過ぎる」という言葉はどうかと申し出ましたが、ただ偶然見なかっただけかもしれません。次に出た語は「・・・のことを考えない」でしたが、これは「避けている」ことになってしまいます。他に「借金の棒引き」という表現も出てきましたが、これは赦しという霊的な意味を十分伝えられません。
最後に「こすって消す」(とか「消す」)という語が選ばれました。この語は、罪がどんなものであるかを認めた上で、神が意識的にその罪を除けて、もう存在しないようにしてくださることを表しています。
サン・ブラスの人たちは、もう一歩踏み込んでいます。赦しは「悪い心を消し去る」ことだと言っています。神が赦してくださるのは、罪の一つ一つの行為だけではなく、心にへばりついている罪悪感(原罪)をも赦してくださるのです。「悪の心を消し去る」というのは、この罪悪感が取り除かれて赦されることを示しています。
コロンビアの北からメキシコ湾まで伸びて枝分かれしている岬に住んでいるゴアヒロ人は、赦しは「罪を過ぎ去らせる」ことだと言っています。すなわち罪が過ぎ去って、もう無くなってしまっていることを表しています。コートジボワールのバウレ人は同じような表現を使い「自分の罪を去らせる」と言っていますし、メキシコのウイチョル人は「神が人の罪を取り去られる」と言っています。
リベリアのクペレ人たちは赦しを「罪に背を向ける」と言います。これは、人が罪を軽蔑し拒むことであると考えがちですが、そうではありません。そうではなくて、他人の罪を責めないことを言っているのです。
神は私たちを赦してくださり、私たちの罪をもう見ないとおっしゃるのです。従って、神はそれに背を向けられるのです。バロー・エスキモーは、赦しを「今からずっと無視する」という意味であると言います。これは、罪はうわべをごまかしたり、別の名前で呼ぶのではなくて、罪を赦す人とは、意識的に罪を無視する人のことです。
赦しを表す表現の中には、本当の意味が分からないと混乱を招くようなものもあります。例えば、ナバホ人は赦しを「罪をその人に返す」と言います。これだと、罪と悪を積み重ねるだけのように思われます。しかし、ナバホの慣用句はそういう意味ではありません。そうではなくて、ある人が誰かに罪を犯したら、傷つけられた側は罪を捕まえたことになります。
傷つけられた側が「罪を彼に返す」ことになれば、すべてが元通りになって、罪を犯す前のようになるということです。そして、罪を行った者は、完全に無罪となるのです。これが神の赦しの神秘でもあります。神は赦された罪人をご自身との交わりの中に入るのを赦してくださるのです。
ある言語では、赦しは赦しを与える側の性格を表す言葉で表現します。南部メキシコの山地に隠れてしまっているような小さな部族トゥリケ族は、赦しを「大きな心を持つ」ことだと言います。
もっと南のツェルタル族は、「神はご自身の心の中で私たちの罪を見失ってくださる」と言います。神の心はとても広く、神の愛の容量はとてつもなく大きいので、すべてを包み込んでしまいます。神は「私たちの罪をご自身の心の中で見失ってしまわれる」のです。
「恵み(恩寵)」(grace)
神の赦しの神秘を説明してくれるのが神の恵みです。西アフリカのキスィ族とフタフラ族とは、恵みを簡単に「良いこと」(優しさ・親切さ)と言っています。神の優しい心が私たちに恵みを与えようとさせたのでしょう。しかし一般的に言って、恵みの定義には、もう少しはっきりした言葉を使って表しているものが多いようです。
例えば、東南アフリカのツワ人たちは、恵みを「・・・に好意をもって見る」と言っています。サン・ブラス語の慣用句もこれと似ていて「神は私たちを良く見てくださる」と言います。これは、人には真の良きものが備わっていると言っているわけではありません。ただ、神は本当はどんな状態であっても、それに関係なく、人を良いものと見てくださるということです。恵みというのは、外側の罪の奥にある悔いて砕かれた心を見る態度であります。
「恵み」の意味は、第一義的に「好意を与える」ことから来るものであると考えることもできます。恵みのこの一面を表現するのに、バロー・エスキモーは「憐れみから来る助け」と言っています。
メキシコ湾に面した山々の東斜面に住んでいるトトナック人は、恵みを受けた者の応答に注目しています。彼らは「感謝する価値のあるもの」という慣用句を使っています。神の恵み・恩寵は、まったく価値のないものに対する分不相応の憐れみを受けたものとして、その魂は感謝すべきであることを表しています。
恵みは、贖(あがな)いの過程全体に広く行きわたるものであり、いろいろな見方があることになります。ある人は、「神の優しさ」であると見なし、ある人は、「好意をもって見る」ことと考え、また他の人は受け取る恩恵、すなわち「憐れみから来る助け」と、さらに別の人は、恵みの中に「感謝している心の応答」という意味があると考えます。
恩寵というのは、これほど包括的なものであるので、いろいろな翻訳があって当然でしょう。恵みは見たり、いじったり、寸法を計ったり、切断したりするものではありません。恵みとは、天を満たしている霊的なかぐわしい香りが、憐れみの故に地上にまで降ってきたものなのです。
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【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏
世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。
宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。
本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。
ユージン・ナイダ
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