「忍耐」(patience)
平安は魂の属性を表しますが、忍耐は魂の振る舞いを表します。ボリビアのアイマラ人は忍耐のことを「待つ心」とうまく表現しています。
パナマのバリエンテ人は、忍耐をもっと生き生きとした表現で表しています。彼らは、「癇癪(かんしゃく)を探し出す」と言っています。忍耐のない人は癇癪を盗まれ、持ち逃げされます(自制心を失わせる)。忍耐に必要なのは「癇癪を探し出し」、それを抑えることです。
マヤ人は、忍耐を「倒れない力」と表現しています。この言葉は忍耐以上の意味を含むようには思いますが、マヤ語の翻訳で大切なのは、忍耐が無くなると「倒れる」ことだと認めていることです。短気(忍耐のないこと)とは精力的にやる気を起こさせる力であると考え、ひそかに誇りにしている人がいますが、忍耐の無いのは負けであって、忍耐こそ力だということを知る必要があります。
パナマのサン・ブラス人は忍耐を表すのに、ちょっと変わった表現を用います。彼らは「何が起こっても関係ない」と言います。しかし、これは生活や危険を見ても、我関せずと大目に手をこまねいているだけという態度ではありません。それこそ無謀です。
そうではなくて、神に対して向こう見ずと言えるほどの確信を持つことであります。この確信は絶望から生じるものではなく、完全な信頼から生じるものなのです。忍耐のある人は回りで起こっていることにくよくよしたりせず、確信を持って喜んで待つ人のことなのです。
「悲しみ」(sorrow)
悲しみは、人間の心の中心に触れるものです。西アフリカのモシ人は、悲しみを「台無しになった心」の意味であると伝えます。近くのバンバラ人は悲しみを「目を黒くする」と表します。反対に幸せは「目を白くする」と言います。これは悲しみや喜びを表すのに目に色を塗るということではありません。そうではなくて、黒や白が悲しみや喜びといった感情を表すのにふさわしい言葉であるということです。
強い悲しみや問題のあるときに、中央アフリカ共和国のカバラカ語では「私の魂が私を捜している」と表現します。カバラカの人たちは、悲しみや苦悩に遭ったために、外に迷い出てしまった魂が、家に戻ろうとして自分を捜していると信じているのです。
強い感情的苦悩をこう表現するのは珍しいことではありません。苦しみは私たちの心をバラバラにしてしまい、そのバラバラになった心があちこちに散らかってしまいます。自分を取り戻そうとすればするほど苦しみは増し、絶望的な不安に襲われることになります。もし迷い出た魂がそのまま元に戻れなかったら、精神異常になるか死ぬ以外にありません。
「絶望」(despair)
絶望している人を描くのに、コノブ人は、「魂の倒れてしまった」人と言います。
ミクロネシアのギルバート諸島で話されているギルバート語では、魂にとって避けることができないような破局を、英語と似た表現で、「私の心が終わってしまう」(万事休す)と言います。
「慰め」(consolation)
絶望している者にも、慰めは残っています。メキシコで話されているタラスコ語では「神が私たちの心から悲しみを取ってくださる」と言いますが、これは「神が私たちを慰めてくださる」ということです。これは慰めについての簡単な表現ではありますが、私たちに決定的な力を与えてくれます。
フィリピ書2:1を「従って、もしキリストが悲しみを心から取り去ってくださるなら・・・」と信仰を持って読めば、私たちのよろめきそうな歩みも、しっかりとしたものになり、確信を持って、聖霊の喜びに満たされてしっかりと大またに歩くことができるようになるのです。
アイマラ語では慰めのことを「心を備える」と表現します。これこそ、私たちがまず必要としているものです。私たちは悲しみや困難を償って埋め合わせてくれる恵みを、あまりにも求めすぎていないでしょうか。私たちが本当に必要なのは「備えられた心」であります。神は甘やかされた子どもに、霊的なあめを配るなどということはなさいません。新しい整った心を与えてくださるのです。
「憐れみ」(compassion)
憐れみは慰めという感情の源泉です。しかし、憐れみは大げさな感傷主義ではありません。英語の「憐れみ」という語は語源的には、「ともに苦しむ」(1)という意味なのです。
これはシルク語では「魂の中で叫ぶ」と美しく表現されています。他の人に憐れみを示す人は、その人を襲った困難や失望を見て、「魂の中で叫ぶ」のです。「魂の中で叫ぶ」ときには、その憐れみの心を当然親切な行動によって表すでしょう。
「喜び」(joy)
喜びは多くの慣用句で「甘さ」と結びついています。マリ王国のバンバラ人は喜びを「霊が甘くなる」と言い表します。リベリアの南にいるクペレ人は、喜びは「甘い心」だと言います。メキシコのツェルタル人は喜びを「心においしい味」と言います。
このように広い地域にこういった表現が見られるのは、甘いものを食べたときの満足感と豊かな生き方から湧き出る喜びとが、心理的に近い関係にあることを示しているようです。
喜びを表す表現はウドゥク語の慣用句では「胃においしい」であり、バウレ語では「胃に歌」と言います。ニカラグアとホンジュラスのミスキート人はちょっと変わった表現を使い、「肝臓が大きく開いている」と言います。喜びが肝臓に流れ込んでいくのを喜んで受け入れていることを表しているのでしょう。
「幸せ」(happiness)
「喜び」と「幸せ」を分けることは、簡単ではありません。しかし面白いことに、ある言語では、喜びはどこにも行き渡る永遠のものであると見なされるのに対し、幸せの方は一時的であって外界の状況に左右されるものであると考えられていることに気付きます。
パナマのバリエンテ族はこれらを区別して「喜び」を「私の内にある幸せ」と表し、「幸せ」を「私の回りにある幸せ」と表しています。喜びは、心の内にある幸せで心の状態を表すものです。それに対し、幸せは自分の回りを取り囲む心地よさを反映するつかの間の状態を表しているのです。
「甘さ」という考えが幸せを表す言葉にも使われています。西アフリカのモシ族の人たちは「私の頭が甘い」と言い、中央アフリカのカバラカ人は「私の体が甘い」と言います。リベリアのロマ人は「私の胃が甘い」と言い、隣のメンデ人は「私の内臓が甘い」と言います。これらの表現は実質的に同じことを表しています。甘さが幸せなのです。しかし、その甘さは食物の甘さではなく、命の甘さであります。
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【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏
世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。
宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。
本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。
ユージン・ナイダ
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