「信頼」(trust)
「信頼」は「信仰」ととても近い関係にありますので、両者を区別することはほとんど不可能です。ユカタン半島のマヤ人は、積極的に「神に身を委ねる」行為を「神の上に身を置く」と表現します。
信頼するとは、ただ、漫然と何かに望みを置くということではありません。それはあとで軽い失望感を味わわされるだけです。ではなくて、もっと現実にあり確かな何ものか──それが人であれ物であれ──に自分を委ねる行為なのです。神に信頼するとは「神の上に身を置く」ことなのです。
私たちは神を信頼することもありますが、逆に信頼を拒むこともあります。このような状態を表すのに、パナマのサン・ブラス人は無遠慮なほど正直に、その人が「内に疑い」を持っていると言います。
私たちは時々、神に対する信頼と確信がない状態を、魂が空っぽになっている状態であるという言い方をすることがあります。こんなことはサン・ブラスの人たちにはあり得ないのです。信頼しないというのは、信頼が存在していないということではなく、疑いが存在しているということなのです。
霊的生活はゼロの集合体(すなわち、存在しないものの集まり)で出来ているのではなく、具体的な要素の集まりで出来ているのです。すなわちこれがあるか、あれがあるかであります。信仰によって生きていない人は、疑いのうちに生きているのです。疑いとは、現実にあるものです。
「疑い」(doubt)
多くの人にとって「疑い」とは、もやのかかったような不確かな状態、一種の意味のない心配、心の不安な状態──そのような状態では考えもまとまらない──であると考えています。ある言語では「疑い」を表すのにもっと積極的な言い方をします。
ペルーにある高いアンデス山脈の東側斜面に住むウアヌコ・ケチュア人はもっと単純ですが正確な表現を使い、「疑い」を「2つの考えを持つ」と表します。もっと東に住んでいるシピーボ人はほぼ同じ表現を使って「2つのことを考える」と言います。
疑いというのは、たくさんの選択肢の中からどの1つを選ぼうか迷っているような状態であると考えがちですが、実は根本的には、シェイクスピアが「生きるか、死ぬか」(1)と簡単な言葉で表現しているように「あちらかこちらか」という二者択一で表されるものなのです。すなわち、疑いとは「そうであるか、そうでないか」「賛成か反対か」であって「これかあれか」を選ぶことなのです。
グアテマラのアルタ・ベラパス地方で話されているケクチ語は、このような相反する考えの葛藤を「心が2つになる」という慣用句で表現します。疑いは人格を引き裂いて、積極的な行動ができなくさせてしまいます。これは未熟なクリスチャンたちの多くが抱える霊的な二重性、そして葛藤のことを言っています。合衆国の南西部に住んでいるナバホ族は、疑いのことを「2つの物が内にある」とほぼ同じ表現を使っています。
しかし、疑いは別の表現もできます。魂の巡礼者が出くわす疑いとは、いつでもそれほど単純な二者択一ばかりではありません。人生という道を旅していると、あちこちで道が分かれていて、見たところどの道も同じように魅力的な場所に行けそうに見えます。その結果、私たちは混乱してしまい、以前導きによって解決が与えられた経験があったのに、その事実に疑いを持ち始めるのです。時には、道が行き止まりになっていることもあります。明らかに、袋小路を選んでしまったのです。そうなると信仰が消えてしまいます。
このような疑いを表現するのに、西アフリカのコートジボワールに住むバウレ人たちは、「私の考えはその上にない」という素晴らしい慣用句を持っています。もし考えが何かの上にあれば、確信が持てるということですが、もしないと、疑いが起こるのです。
ペルーのピーロ族の人たちは、疑いを表すのにまた違った言い方をします。「硬い心を持つ」と言うのです。硬くて何も受け付けない心の人を納得させることはできません。頑固な反抗的態度は心を疑いに導くだけです。信仰には柔らかい受容力があります。疑いは反抗的で自己満足している魂の砦(とりで)なのです。
「心配・不安」(worry)
疑いには心配が続くものですが、それは夕方になって陰が伸びてくると、やがて夜がやって来るのと同じくらい確かです。すでに述べたように、ナバホ族は心配のことを「心が私を殺そうとしている」と表現します。ペルーのピーロ族の人もほぼ同じような慣用句を持っており、心配している人は「追いつめられている人」だと言います。心配している人は、森の中で追跡され猟師をかわして逃げようとしている動物のようだと言うのです。
見通しの利かないジャングルに入り込んでしまったように、先の見えない状態で、力は衰え、疑いで疲労困憊(ひろうこんぱい)し、魂は押しつぶされてしまい、心は打ちひしがれ、なくなってしまったかのように感じることさえあります。メキシコ南部のごつごつした山間部に住んでいるツェルタル人はそんな時、「心配」を「心がなくなってしまった」と言います。
多くの場合、心配とは霊的な罪で、魂が自己に占領されてしまっている状態を示します。そのような自己中心から来る心配に引き込まれてしまうと、とても大切にしているもの──自分の心まで──盗まれて失ってしまうことになるのです。心配の中心になるものはどんな時にも利己心です。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」(マタイ16:25)のです。
「確信」(confidence)
確信は心配の解毒剤です。ただ、確信というのはただの希望的観測から生まれるものではありません。「知る」ことから来るのです。ナバホ族は、確信が得られる過程を「最後まで追跡して突き止める」と言います。
もし馬が茂みの続く涸れ谷に入り込んでしまったとします。この馬がどこに行ってしまったか知りたければ、ひずめの跡を注意深く進んでいって見つけることです。
確信を持って福音の真理を受け入れようとするには、真理らしいものを憶測しているだけでは得られません。確信を得たいと思っているものを「最後まで突き止める」ことが必要なのです。確信は、盲目的に従うことではなく、積極的に調査することから得られるのです。確信は体験から生まれてくるものなのです。
「愛」(love)
信仰がなければ命が得られないように、愛のないところに福音はありません。信仰による命は、愛に根ざしたイエスの十字架による和解によって得られるものですが、それだけではなく、この命は愛によって支えられてもいるのです。
これは私たちに対する神の愛だけでなく、私たちが神を愛する愛についても言えることです。この愛は私たちの最高の霊的喜びであり、神との交わりの基本なのです。「愛」は「信仰」以上に、私たち個人の主観的な意識を反映しているのです。
マリ国のサハラ砂漠の端に住んでいるアベ族の人たちは、「神の愛」というときに「神を心に置く」と言います。これは人間の心の中に神を封じ込めることができるなどということではありません。永遠なるお方は、聖霊として人の心の中に住んでいただくことができるということです。そして、「心の中に神を置く」ように魂を促すのは、愛だけしかありません。
メキシコのオアハカ山脈に身を寄せあって住んでいてミトラ方言を話すサポテク人は、「愛」を表現するのに反対のことを言います。神を自分の心に置くのではなくて、「私の心は神について出て行った」と言うのです。
アベ族の人たちもサポテクの人たちも両方とも正しいのです。神が自分のうちに宿っておられると感じることがありますが、また自分の心がもはや自分のものではないと感じることもあります。私たちの心は神のものであって、愛する相手はこの地上ではなく──巡礼者と同じで、地上には宿る場所もありませんが──天上のものとの完全な交わりを慕い求めているのです。
ウドゥク人は、愛を表面的にしか見ていないように思われます。愛は「目に良いもの(見て美しいもの)」と言うからです。慣用句を見ただけで、霊的な洞察力や能力があるとかないとか判断してはなりません。それに、この慣用句も結構正しいようにも思えます。
実際、ギリシャ語のアガペーは、もともと神の愛やキリスト教共同体の愛を表すために使われる語ですが、本質的には「あるものの価値を認めて評価する」という意味があるのです。友人関係や仲間意識から生じる愛(それはフィレオーといいます)ではありません。
本来私たちはまったく無価値なものであるのに、作り替えることによって神の子の姿に似る者となることができるというだけの理由で、神は私たちを愛してくださったのです。このような愛のことを言っているのです。
さらに、このような愛で他の人たちを見たとき、たとえその人がまだ神様のものになってはいなくても、聖霊が働くことによって、その人のうちに神のなさる業が見えるようになるのです。これこそ個人的な関心事よりも数倍高い愛であり、感傷的な愛着よりも数倍深い愛です。これが聖徒たちの交わりのもととなるものなのです。
愛は、時に力強い言葉で表現されることもあります。東部ニカラグアとホンジュラスの海岸の湿地帯に住んでいるミスキート人は、「愛」とは「心の痛み」であると言います。喜びがあまりにも激しくなると、痛いように感じることがあります。愛が完全に心を支配してしまうと、それに一番近い感覚は痛みです。
南部メキシコの雲のかかっていないチアパス山脈に住んでいるツォツィル族は、愛をミスキート人とほぼ同じ言い方で表現し、「心を痛める」と言います。ですからヨハネ3:16は「神は心に強い痛みを感じて、独り子を遣わされた」となるのです。罪人に対する神の愛は、神の心を痛ませたに違いありません。しかし、この世がご自身と和解できるようにキリストに求められたのは、この痛みの感覚ではなく、愛に満ちた憐れみでした。
北部グアテマラのコノブ人は、もう一歩先まで行きます。彼らの言い方では、愛は「私の魂が死ぬ」です。愛とは、その愛する者と一体になる喜びを体験しない限り、「魂が死」んだように感じるというのです。
コノブ人の表現を使うと、神を愛する人は、「私の魂は神を求めて死ぬ」と言います。これは愛する者が感じる力強い感情を表しているだけでなく、それと関連ある真理をも表しています。すなわち、本当の愛には自己の入り込む余地がありません。神を愛する者は、己に死ななければなりません。
本当の愛は、あらゆる感情の中で最も非利己的です。自己を求めるのではなく、他者を求めます。偽りの愛は所有しようとしますが、真の愛は所有されることを求めます。偽りの愛はがんのような嫉妬へと至りますが、真の愛は命を与える働きへと導きます。
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【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏
世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。
宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。
本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。
ユージン・ナイダ
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