「うそつき(偽りを言うもの)」(liar)
うそつきというのは、言葉の偽善者です。北部メキシコのタラウマラ人は、このような人のことを「風の強い」人(ほら吹き)と言います。もっと南に行ったパメ人は、うそつきは「おしゃべり」だと言います。
多くの場合、このような人が話をすると、いつでも真理に何かを付け加えることになります。まるで油紙に火がついたようにべらべらしゃべることで、真理を曲げて伝えることだと、うまいことを言ったものです。
西アフリカのモレ語では、うそつきは「水をたたき切る」人であると言います。このように実行不可能な行動は、でっちあげの物語を語る人にはふさわしい言葉です。
「高慢」(pride)
高慢は、自己を拝む偶像礼拝です。傲慢(ごうまん)がその祭司で、貪欲がささげもの、そして、お世辞がその儀式です。シピーボ人はこの問題の核心に触れ、高慢を「『自分は他の人よりも位が上』と宣言すること」と表現しています。
高慢は己を神とします。時には謙遜を装った高慢もあります。高慢は人格を汚し、魂に霊的真理を触れさせません。高慢はいろいろな道から入り込んできます。日曜学校の先生が、高慢なファリサイ人と悔い改めた徴税人の話(ルカ18:13)をした後で、「さあ皆さん、みんなファリサイ人のようでなくって良かったですね。神様に感謝しましょう」と言うようなことすらあるのです。
グアテマラのカクチケル語では、高慢を「曲げない首」と言います。他の人を見下すかのように高々と首を持ち上げている人は、ペルーやボリビアの高原に住んでいるラマと同じです。ラマは2、30頭の群れの回りに1本のロープを張り巡らすだけで、動きをとれなくさせることができます。
ロープを1頭のラマの首に結びつけておき、あとは頭をつんと立て、首を伸ばして立っている群れの回りに巡らせるだけです。一頭一頭をロープに結びつける必要はまったくありません。誇り高い態度で決して頭を下げようとしないからです。
ただ単に誇りが高すぎて、悔い改めのために頭を下げることをしないために、罪のロープにつながれてしまっている多くの人と同じです。自分のメンツを救おうとする人は、自分の命を失うことになります。
「柔和」(meekness)
高慢な人ではなく、「柔和な人が地を受け継ぐ」(マタイ5:5)のです。こういった人たちが、天国の子どもであり、神様がそのために場所を備えてくださったのです。
しかし、柔和は怠惰とは違っています。また手を組んだり、物欲しそうにしているのとも違います。柔和というのは魂の習性であって、柔和という性質があれば、たとえ何か物を盗まれたとしても、命を見つけることができるのです。
西アフリカのモレ語では、柔和な人は「心が陰に入っている人」と言います。心が、利己の張り合いという強烈な太陽にさらされることはありません。心が陰に入っているので、その人の人生は涼しいのです。
東アフリカのケニアのキプシギス人は、柔和を「ゆっくり行動する」と描写します。高慢な者は素早く行動します。自分の関心事しか目に入らず、分け前を少しでも早くぶんどりたいからです。しかし、柔和な人は自分のことを第一に考えません。他の人の願いを考えるために、ゆっくり、慎重に行動します。
カバラカ語では柔和は「子どものような中身(心)を持つこと」だと考えます。柔和は謙遜の賜物です。高慢は、自分の罪と自己を求めることから生まれた怪獣です。
「つまずき」(offend)
「つまずかせる」という言葉には、新約聖書で少なくとも2つの違った意味があります。「もし片方の目があなたをつまずかせるなら」(マルコ9:47)というのが一つのつまずきの意味であり、マタイ13:21にある「つまずき」は、別の意味で、迫害や艱難(かんなん)がやってくると真理を捨ててしまうという意味です。
第一の意味でのつまずきをサン・ブラス語では「もしあなたの目があなたの心を駄目にしてしまうなら」と表現されています。ギリシャ語の直訳では「よろめき倒れさせる」という意味ですが、多くの言語では直訳はできません。
しかし、サン・ブラス語の表現で聖書の教える真理が見られます。文字通り倒れてしまうのでもありませんし、その意味では、文字通り心を駄目にしてしまうのでもありません。人格の一部を罪の道具としてしまうことによって、怪我をして傷つくのは人格なのです。
ケニヤのキプシギス語では、ギリシャ語の慣用句を「もしあなたの目があなたに罠をかけたら」という慣用句を使って注意深く表現しています。以前にも増して、人目を引く力とは自分に興味を持たせることだと考えられるようになってきています。魂と命が救われるためには、えぐり出してしまわなければなりません(マタイ5:29)。
「つまずかせる」とか「罪を犯させる」という意味の「つまずき」は、個人の人格の問題だけでなく、人々との関係にも当てはまることです。マルコ9:42にある「これらの小さな者の一人をつまずかせる者は」という警告は、トトナック語では「これらの小さな者の一人に間違った道を教える者は」と翻訳しています。
私たちは、日々の生活の中で自分を見ている人に、いつも道を示していることになります。神が私たちに歩いてほしいという道から外れて歩くとすれば、他の人に間違った道を教えていることになるのです。
「これらの小さな者の一人をつまずかせる」ということは考えただけでショックですが、トトナック語のように日常使っている言葉で「間違った道を教える」ことだとはっきり言われると、水をぶっかけられたかのように驚いて、自分がここが間違っていたんだということに気付かされます。この罪があったら、「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」(マタイ18:6)とイエスは言われました。
真理を受け入れたらどうなるか結果を見せつけられて、つまずいてしまい受け入れることをやめてしまう人がありますが、この種のつまずきというのは、いろいろな言い方で表されます。
恐れや関心を失って諦める人のことをピーロ人は「彼らは別の道を行く」と言います。といっても、やがては同じゴールに到達するということではありません。単に脇道にそれ、他の人から離れ、自分の気まぐれの赴くままの道をたどるということです。
ナバホ人はぶっきらぼうに「彼らはそれを捨てる」と言います。真理をちょっと試してみて、拒否するのです。カバラカ人はあるものを受け入れた後、それを裏切る人の心の状態を描写して、「彼の魂が病気になった」と言います。イエスにパンと魚を求めて従っていったのに、ヨハネ6章の難しい言葉を受け入れることができなかった人たちのことをよく言い表していると思います。彼らは魂が病気になってしまったのです。
リベリアのロマ人は前述したように、信仰とか信じるということを「その上に手を置く」と表現します。すなわち信仰の対象と自分とを一体化させるということでした。従って、つまずいた人は「急いでそこから手をのける」と言います。イエスにつまずいた人たちは、これ以上イエスと一体化しようとはしませんでした。
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【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏
世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。
宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。
本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。
ユージン・ナイダ
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