「栄光」(glory)
神をどう呼んだらよいか適当な言葉を見つけることよりも、神の属性にぴったり合った言葉を見つける方が難しいことがあります。その一つは「栄光」です。
王国であれば、誉れと威儀と威厳を王にささげますので、「栄光」に大体似た言葉を見つけるのはそれほど難しくはないでしょう。ただ、そのままではちょっと意味が弱いので、聖書の用法に照らし合わせてより豊かな意味を持たせるようにします。
しかし、言語によっては、人の属性を表す言葉をいくら捜しても、「栄光」にわずかでも似たような言葉すらないことが多いのです。どうしたら、この言葉の意味が分かるようになるのでしょうか。
ナバホ語では、栄光を表すのは「輝くもの」という言葉です。神はその臨在においてまたその神格において輝くお方であることが分かります。マヤ語ではもう少し特定して、神の栄光を「神の美しさ」と言います。サン・ブラス語では「強い輝きの反射」と言います。
「栄光」に当たる言葉でさえなかなか見つからないとすれば、「栄光を帰す」という言葉にふさわしい表現は、それより10倍も難しいでしょう。神が私たちに栄光を示されるという言葉はそれでもまだ翻訳できますが、私たちが神の栄光をたたえるという言葉はさらに翻訳が難しいのです。
神が私たちに栄光を表されることは「神は私たちに輝きを分け与えられる」と翻訳すればよいのですが、私たちが神に輝きを提供することはないからです。神こそが、その栄光の源だからです。
リベリアのクペレ語では、「神の輝きを引き上げる」と言います。これは神の栄光の輝きを人の前でたたえるということです。神の業を賛美し、私たちに示してくださった神の素晴らしい業を語ることなのです。
シピーボ人は神に栄光を帰するというのは「神のほらを吹く」ということであると言っています。一見、霊的でない言い方であるとびっくりされるかもしれません。しかし、本当はこれがパウロの使った言葉なのです。
パウロはイエス・キリストに対する確信、御子によって神が世に救いを与えられたと確信を持ったとき、「ほらを吹く」という言葉を使いました。今日の私たちの教会の悲劇は、ほらを吹くことは吹くのですが、巧妙に、教派のことや教会堂、出席者数や伝道計画などのほらを吹き、信仰の創始者であり完成者である方のほらは吹かないことでしょう。
「礼拝」(worship)
礼拝は圧倒されるような神の栄光に対する魂の応答であります。バリエンテ人は礼拝のために平伏しているさまを「神の前に魂が自身を切り倒す」と表現します。
この比喩は、森の中で空に聳(そび)えるマホガニーの木が切り倒される様子を言ったものです。木こりの斧で、はじめ小刻みに揺れていた木がだんだん大きく揺れ、最後に雷のような大音響を立てて、誇り高くそびえ立った木のてっぺんが、広がった回りの森の腕の中に倒れていくのです。
「高きにいまし、褒めたたえられるべきお方」(イザヤ6:1)を心から礼拝する者が体験していることです。私たちが何の取り柄もないことを知るとき謙遜な者にされます。バリエンテ人は神の臨在の前に「自らを切り倒す」と言うのです。私たちの頭は、自信で高くふんぞり返っていましたが、礼拝において、どんどん低くされるのです。
ツェルタル人も似た表現をします。彼らは礼拝とは「神の前で一生を終える」ことだと考えています。人生の終わりに来て初めて、本当の礼拝ができます。精霊崇拝者は、ご利益を受けたくて神々を礼拝します。キリスト教国にいながら不信心である者は、教会出席が人生に成功し、未来に幸運がやってくる保証だと考えています。しかし、神は「人生の終わりに来た時に」払わなければならない代価以外には、礼拝の代価を定めておられません。
同時に、礼拝には、神がすべてであり、すべてにいますという主観的な枠を越えて積極的な意味があります。それは賛美と感謝の礼拝で、リベリアのクペレ人が「主に祝福の声を上げる」と言っているものです。
「慰め主」(the Comforter)
前述したように、新約聖書を通して「慰め主」(ヨハネ14:16)ほどふさわしい翻訳をするのが困難な言葉はありません。ギリシャ語では paracletos と言いますが、非常に意味が豊かな言葉です。
「慰める」という意味だけでなく、「諭す」「勧める」「勇気づける」「助ける」などの意味を持っています。これらの意味全部を一つの言葉で表現するのはとても難しいことです。しかし、翻訳宣教師は素晴らしい聖霊の働きを人々に伝えるのにふさわしい語句を見つけなければなりません。
南フィリピンのジョロアノ・モロ語では、人々は「いつも一緒に歩いてくれる方」という言葉を使います。この意味では、聖霊は信じる者といつも共にいる友であります。中部メキシコのオトミ方言の一つでは、信徒が「私たちの魂を温めてくれる方」という言い方はどうかと申し出ました。心が冷え切って、罪と世の煩いの凍るような雰囲気の中に住んでいる魂が、生きた御言葉に慰めを求め、魂が最も必要としている温かさを、御霊の働きによって見つけた様子が思い浮かんできます。
バウレのクリスチャンは、慰め主のことを「さまざまな思いを縛り付ける方」と言っています。悩んでいる心は無意味な苦しみで、バラバラになっています。慰め主はこのような取り乱した思いを一つに縛り付けてくださいます。たとえ、それが完全になくならなくても、聖霊が制御してくださいます。
私たちはそういった悩みを、こんな思いはいけないと否定してみたり、精神療法の魔術を受けたりして忘れられるようにと願っても、自分ではそれを追い出すことができないのです。必要なのは、それらの悩みの根っこを押さえて、バウレ人が言うように「縛り付けて」いただくことです。その時、心の内に平安の喜びを体験できるのです。「その心があなたから離れない者を、あなたは完全な平安のうちに守ってくださる」(イザヤ26:3)のです。
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【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏
世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。
宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。
本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。
ユージン・ナイダ
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