御言葉が人々に語る
聖書は翻訳するだけでは十分ではありません。聖霊に語り掛けていただくためには、人々の手に渡らなければなりません。宣教師や聖書協会によって出版された聖書は、しばしば翻訳宣教師自ら配布することになります。そのために彼らは何週間もへんぴな山間部にある谷間の村々や、ジャングルの中を蛇行している川に沿って散らばっている村々にまで行き、自分の言葉で読んだり学んだりできるようになったメッセージを人々に伝えるのです。宣教師はしばしば識字運動に携わり、学校を作ったり、村の火を囲んで開かれる夜間クラスを手配したりします。このようにして紙の上に書かれた奇妙な記号に慣れていない人たちの目や心に新しい世界が開かれたのを知るのです。
聖書はコルポーター(聖書販売人)によって配布されることもあります。彼らは神の言葉の販売のために献身して聖別された人たちで、埃っぽい道や活気に満ちた港、人の混雑している街角や市場など、真理の届けられる場所にはどこにでも出掛けていって販売します。
大抵は聖書を買ってくれますが、お金のためにしているのではありません。そのお金で出版費がまかなえることはまずありません。しかし損をしてでも聖書を販売することには2つの利点があります。まず、本を買った人は、もらったものよりも、本当にありがたく思い、大切にするからです。2番目に、販売人はたくさんのお客さんに語る機会が与えられるからです。「この本はとても大切な本で、みんなに必要な教えが書かれているんですよ」と語るのです。
聖書の無料配布大キャンペーンで、素晴らしい効果が得られることもあるでしょう。しかし多くの場合、ただでもらう本はいらない本であって、政治広報誌と同じに見なされてしまいがちなのです。聖書のため数十円を出してもらったり、時には卵や塩や肉のひとかたまりと交換したり、一晩泊めてもらうお返しとして聖書を渡すこともあります。コルポーターは、自分が神のメッセージを聞いてどうなったか、信仰の体験談を話して、聞いている人たちに神様の言葉をもっと知りたいと思わせるのです。本のために出してくれた数十円が、この本を読んでもらえる保証になるのです。そして、読めば、聖霊が語ってくださいます。
「コルポーター」という言葉は「聖書の行商人」という意味ですが、新しい言葉ではありません。オックスフォード辞典によれば、1796年もの昔に使われていたということです。これはフランス語からの借用で、直訳すると「首(コル)からつるして運ぶ人(ポーター)」という意味です。現代のコルポーターは聖書をスーツケースやナップサック、巻き毛布、サドルバッグや小さなトランクに詰めて運びます。旅行は歩いたり、自動車やバス、汽車、ボート、カヌー、ラクダ、ロバ、飛行機に乗ったりして行きます。聖書がなくて霊的に飢えている人たちに、聖書を持っていくのです。
なぜ快適な家や友達を捨て、長旅をして敵意で満ちた人たちの間に入って、わざわざさげすまれている本を売りになど行くのでしょうか。キリストの愛に迫られ、神の御霊に支えられなければ本当のコルポーターはできません。そのような一人がビセンテ・キロガです。
彼は1878年、北部チリの大震災の時、大津波で転覆した船の破片でゴミの山になっている海岸を監視する仕事をしていました。壊れた箱、籠、帆柱などの間に、見慣れない本の数ページに気付きました。太陽の下で渇かし、読んでみました。
それまで聞いたことのないような不思議なメッセージが書かれていましたが、何のことかよく分かりませんでした。何遍も読んでみましたが、読む度に、心をとらえるとはいえ、ますます訳が分からなくなってしまいました。とうとう一人の友達にそのページを見てもらいましたが、この友達がひょっとしたら聖書とか呼ばれている本の一部かもしれないと教えてくれました。
何週間もの後、ようやくビセンテ・キロガは1人の宣教師に会い、聖書を1冊もらいました。ついに、彼はメッセージの全部を読むことができたのです。その言葉は彼の心に入りました。時を経ずして、彼はこの本を持って北部チリの砂漠地帯の、水がほとんどない川に沿ってかたまっている小さな村々を回る仕事に身をささげたのです。20年後には、チリのその地域でこの謙遜なコルポーターの訪問を受けなかった家も村落もほとんどなくなっていました。彼はこの命の書である聖書の中に、死に臨んでいる人たちが命を得るメッセージを見つけたのでした。
聖書のない人たちに聖書を配布する人も、この同じ聖書のメッセージの生き証人です。インドのヒンズー教の人たちによく聞かれる質問は次のようなものです。
「どこで、なぜあなたはクリスチャンになったのですか」
「あなたの宗教は、私たちのとどういうふうに違うんですか」
「あなたはなぜ他の信仰を持っている人たちを改宗させようとするのですか」
「あなたの聖書は、私たちのヴェーダやシータやウパニシャッドに比べてどう優れているのですか」
「インドだってどこにだってたくさんの聖人がいるのに、なぜキリストだけを特別扱いするのですか」
「ヒンズー教徒でありながら、キリスト教をやることはどうしてだめなんですか」
神の御言葉を述べ伝える人がヨハネ14:6の「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と書かれているように、神が唯一のお方であることを謙虚に知っていなければ、敵のあざけりにも、求道者の熱心な質問にも答えることはできません。
インドではコルポーターや宣教師、伝道者が、神の言葉とイエス・キリストの知識を驚くほど多くの人に伝えました。ガンジーの死に際して、ヒンズーの新聞は、彼を称えてキリストに匹敵すると書きましたが、ヒンズー教の神々にはまったく譬(たと)えておりません。このことだけでも、御言葉のメッセージが個人的信仰にまでは至らなかったにせよ、多くの人の心の中にどれほど入り込んだかが分かるのです。
*
【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏
世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。
宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。
本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。
ユージン・ナイダ
◇