わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。(エレミヤ33:3)
現在、国際宇宙ステーションが地球を周回しながら24時間体制で観測を続け、NASA(アメリカ宇宙航空局)と連絡を取っています。NASAの情報として地球の表面に大きな光の十字架が現れたということが話題になっています。大きさは数十キロから数百キロに及ぶ大きな十字架だそうです。それが800個も現れたとなれば不思議では片づけられないと思います。
学者の説明によると、雷の現象だとか、プラズマの影響という説もあるそうです。しかし、そこまで巨大になることはあり得ないので、上空の水蒸気が凍って光が反射したという説明になっていますが、真相は不明だともいわれます。
ひときわ大きな光の十字架が現れる場所の一つを特定し、その下にどこの国があるか調べたそうです。それはベネズエラだったそうです。ベネズエラは独裁大統領の行き過ぎた社会政策のために経済破綻し、人々は貧困に苦しみ、十分な食べ物もない状態だといわれます。医療設備や薬品も購入できず、病院の運営ができなくなったため多くの医者がベネズエラを脱出しているといわれます。しわ寄せは乳幼児や高齢者にいき、治療が受けられないため、死亡率が高まっているといわれます。
この悲惨なベネズエラ国内においてどこにも行き場がなく、誰にも頼れない多くの弱い立場の人々は、主なる神に祈るしかなく、神に叫び求めています。彼らの祈りが天に届き、光の十字架が生み出されたと見ることもできます。同時に他の国々に対して、助け合いのための行動を起こしなさいという神のメッセージと受け取ることもできます。
私たちは自分が苦難のただ中に立たされたときに、神様に祈り求めながらも、この祈りは神に届いているのだろうか、神は聞いてくださっているのだろうかと不安になることがあります。聖書に示された約束は確かであり、神は聞き届けてくださっています。しかし、神は私たちの予測を越えたところで働かれることがあります。
ある和尚さんに「ありがとうの反対語は何だと思いますか」と聞かれたことがあります。「ありがとう」の反対語は「あたりまえ」だそうです。私たちは夜に眠り、朝、起きます。私の手が動く、歩くことができるなどの日常の動きをあたりまえと思っていることがあります。あたりまえと思っていたことは、実は有り得ない恵みです。
不測の事態が起こるとか、病気になるという非常事態に陥ったときに、あたりまえと思っていたことは神様の恵みであり、奇跡の連続なのだということに気付かされます。恵みのただ中にいると感謝を忘れてしまうことがあります。
エジプトを脱出したイスラエルの民は荒野で飢えに直面し、神に叫び求めます。神は天からマナを降らせ、イスラエルの民を養われます。ところがしばらくすると、マナだけでは足りない、肉が食べたいと不満が出てきます。神は求めに応じて、うずらの大群を送られたと聖書にあります。(出エジプト記16章)
聖書の中のイスラエルの民の行動を見て、どうして神の恵みを忘れてすぐつぶやくのか、感謝が足りないのではないかと思いますが、これは私たちの日常の行動そのままなのです。
聖書の中に示されている神は、憐れみ深く、慈愛に満ち、寛容な神です。わがままな民であっても優しく答え、忍耐して見守り、支えてくださいます。この神は同じように私たちの祈りに答えてくださいます。
聖書の中にある聞かれる祈りの条件として、根気強く祈り続けること、心を合わせて祈ること、朝早く起きて主に呼ばわることが示されています。誰かに会う前に朝一番に神に祈ることは、神へのあいさつであり、生活のリズムを作ることになります。
さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ1:35)
朝早く起きるということはなかなか難しいですが、教会の早天祈祷会に行くとか、モーニングセミナーに参加することによって早起きの習慣が身に着くと思います。朝早く主に呼ばわるときに必ず道が示されます。
まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。(申命記4:7)
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