それゆえ神は、この方(キリスト)を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:9~11)
ピリピ書に「すべての口が主をたたえる」という箇所を最初に目にしたとき、世界中のクリスチャンが主を礼拝し、ほめたたえるという意味に受け取っていました。しかし、よく読んでみると、すべての口というのはクリスチャンも未信者も異邦人もすべてという意味に受け取るべきではないかと思うようになりました。「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの」という表現は、天にいる御使いも、過去に亡くなったすべての人も主を賛美するという意味に受け取ることができます。
使徒パウロは、決して絵空事や願望を語っているのではなく、聖霊によって幻を示され、自分の目によって確かめたことを書き記したのではないでしょうか。
神道はユダヤ教の影響を受けているし、仏教も東方キリスト教である景教に影響されているという話をすると、おとぎ話か絵空事にしか受け取ってもらえないことがあります。
それは空論にすぎないと主張する人々は、日本と中東の距離があまりにも離れていることを根拠に挙げます。昔の人々にとって距離はあまり問題でなかったように思います。彼らは、陸のシルクロードや海のシルクロードを通って片道2年間かけて行き来していました。彼らの時間の感覚でいくと、日本と中東の距離など問題ないのではないかと思います。
縄文人は、私たちが想像する以上に優れた海洋民族でした。海流を熟知し、風をよみ、カヌーを巧みに操り、各地と交流しています。南洋の島で縄文土器が発見されています。また、中東やヨーロッパで縄文土偶が発掘されています。
学術的に証明されていませんので、断言できませんが、中東のシュメール文明と縄文人のつながりもいつか証明されると思います。ましてや2600年前にアッシリア捕囚になったイスラエル10部族が、大陸の東の果てにある日出づる島を目指したとしても不思議ではありません。エルサレム陥落の時には、残りの2部族の一部も、同胞が行き来しているシルクロードを通り、秦氏と共に日本にやってきたと考えても、荒唐無稽な話ではないと思います。
日本の神社には、ユダヤ教の痕跡が見られるといわれます。伊勢神宮の形とサイズは、あまりにもユダヤの幕屋に酷似しています。ダビデの紋章が神社で見られるのは決して珍しいことではありません。また、日本の相撲もユダヤ教の神事であるといわれています。ヘブル語と日本語に共通の意味と発音を持つ言葉が500以上あるともいわれます。また、日本の「神道」という言葉は、聖書に由来しているといわれます。また、よく用いられる「虎の巻」という言葉も「トーラー・スクロール」(トーラー巻物)から来ているといわれます。
あなたが、あなたの神、主の命令を守り、主の道を歩むなら、主はあなたに誓われたとおり、あなたを、ご自身の聖なる民として立ててくださる。(申命記28:9)
唐に留学した日本の僧侶は、少なからず景教の影響を受け、漢文の聖書写本も持ち帰っているといわれます。真言宗で行われている十字を切る仕草は、景教そのものです。カトリックのミサを見学した天台宗の僧侶は、自分たちも同じようなことをしていると話していました。また、この僧侶は「すべての宗教の根源はモーセの十戒です。殺してはならない、あなたの父と母を敬えなど、すべての基本が十戒から来ています。十戒に反していることを教えたら宗教ではないですよ」と断言していました。
神道や仏教にも神様の働きがあるのは否定できないと思います。やがて時が満ちたら、聖霊が注がれ、彼らは気付くかもしれません。本当はキリストと関わりがあったということを知ることになるのではないかと思います。その時はキリストの前に膝をかがめ、主を褒めたたえるのではないかと思います。
イスラム教徒の方々もキリスト教と対立しています。しかし、イスラムのアラーもユダヤ教やキリスト教の父なる神も同じ神です。やがてイスラムの人々も聖霊によって目覚め、自分たちは同じ神を礼拝しているのだと気付き、同じようにキリストにひれ伏す時が来るような気がするのは、私だけでしょうか。
世界の宗教は対立し、政治の世界には混乱があり、地域紛争が絶えず、世代間の争いもあります。今こそ、宗教者が立ち上がり、神の平和を語る時だと思います。同じ神の子として他宗教の方々とも交流し、語り合う場を持つべきなのではないかと思います。世界は宗教の対立ではなく、神を信じる者と信じない者の2つに区分される時が来ます。神を信じるグループに入るように、忍耐して説得を続けることが求められています。
それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。「われわれの父はアブラハムだ」と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。(マタイ3:8、9)
※古代日本とユダヤ人との関係に関する本コラムの内容は、あくまでも筆者の個人的な見解であり、本紙の見解を代表するものではありません。
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