立派なクリスチャンでも早死にすることがある。どうして長寿で報いてくれないのか。
そうです、こんな人こそ長生きして当然だと思われるような立派なクリスチャンが早死にすることがあります。「あんないい人に神様はどうして報いてくれないのか」と感じることもあるでしょう。
まず、この際考えるべきは、長寿がいつの場合もめでたい、いいことだ、というのは固定観念であって、考え直す余地があるのではないかということです。老後はみな安楽で苦がないように思いがちですが、どうしてどうして、そんな老後ばかりではありません。
孤独になったり、病気がちになったり、体が不自由になったり、頑固になって良い人間関係を築けなくなったり、認知症になって介護者に多大の世話になったり、あるいは財産目当ての家族関係に悩まされたり、逆に、生活資金の心配をしなければならなくなったり、周囲への気遣いで疲れたり、施設に入れられて慣れない人間関係で苦労したり・・・。
とにかく、生きることに伴う苦労は尽きません。釈迦は、人生に生、老、病、死という4つの苦があると喝破しました。“老”もまた苦労に満ちたものだというわけです。釈迦は、それらの苦から解脱して安穏自在の境地に達したいものと修行につとめたのです。しかし、生きる限り、それらの苦から完全に逃れることはなかなか難しいことを認めていたのです。
それに引き替え、信徒が死後に行くパラダイス(楽園)は安らぎに満ち、どんな苦もなく、悲しみもなく、叫ぶ必要もないというところです。完全な安らぎと喜びが約束されています。この世のはかない享楽の時、過ぎゆく欲望の時、これらよりもはるかに幸せの時です。そこへ早く召されたのは、理屈では本来慶賀すべきことです。
他方で、人間がそうは割り切れないことは分かっています。当人も周囲の人もなかなかそういう気持ちになれません。
でもしかし、神様には神様のお考えがあるのです。「この人はこの世でなすべき用務や準備をなし終えた」という場合かもしれません。「この世の苦労はもうそれ以上しなくていいよ」ということかもしれません。「この人の家族にはもっと自立してもらおう」というのかもしれません。
まだまだいろいろな事情が神様にはあるのでしょう。人間はそれらをなかなか理解できませんが。とにかく、神様には神様の事情があることを認めねばなりません。また、ことをなす権限は神様にあるのです。人は不満であっても、理解できないことであっても、それを受け入れるべきです。
わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・・天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(イザヤ55:8、9)
この神様に信頼しましょう。神様が最善をなすことを信じて従いましょう。
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