誰も私に本気でかまってくれない。孤独は耐え抜いて生きるほかないのか。
孤独もまたつらいものです。孤独になる原因を探ってみると、自分の性格上の何か、身体上の何か、コミュニケーション上の何か等々、原因が分かっている場合も分からない場合もあるでしょう。その原因であるものを直したりできる場合とできない場合、いずれもありましょう。仮に、原因が分かっているにしても多分どうしようもないケースがほとんどでしょう。
どうしようもないなら、嘆いても仕方がありません。ここは嘆くよりも、孤独に居直るほうがよさそうです。居直ってストレスを溜めないために、隠れ家・避け所を持つ必要がありますが、その隠れ家・避け所として一番良いのは聖書の神様です。
神はわれらの避け所、また力なり。悩めるときのいと近き助けなり。(詩篇46:1)
孤独になったとき、聖書の言葉に接するなら、その節々(ふしぶし)の語り掛けがよく響いてきます。その語り掛けの主(キリストの神)と親しい関係を結ぶ絶好のチャンスです。キリストは、真実な方、いつくしみと慰めに満ちた方。この方は、生きる力、生きる確信を与えてくれます。孤独であっても、この方が友となってくれるなら、堂々と生きられます。
人間は身勝手な存在で、自分に役に立つ人、自分に面白さか、楽しさか、気分転換か、安らぎかを与えてくれる人、とにかく有用な人とつながりを持とうとします。逆に、何の益ももたらさず、重荷になる人は避けるものです。それがないと分かるとプイと見捨てて行ってしまうものです。しかし、キリストの神は違います。
ほむべきかな。日々、私たちのために重荷を担われる主。私たちの救いであられる神。(詩篇68:19)
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたし(キリスト)のところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)
自分の周囲にいるたかだか千人か2千人の中でちやほやされなくとも、あなたは知恵と恵みの神の前で愛されて生きることができるのです。神はこう言われるのです。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)
人がキリストを信じるとき、神が聖霊としてその信じる人の心の奥底に宿ってくれ、以上のことをしっかり対応してくれます。もう独りではなく、いつも聖霊の神と共に生きるのです。
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