永遠を求めても不可能なことだ。短いこの世の人生を最大限に楽しく生きればいいんだ。
人の肉体の命は70年か80年(最近は90年になっているかもしれませんが)。しかし、“死後”はずっと続くものですから、そういう意味で永遠であるということです。死後は“無”(何もない)という人にとっては永遠でないという余地もありますが、それは議論だけのことで、実際には大半の人が、霊魂が何らかの状態で存続していると考えているようですね。葬式の弔辞で「天国で安らかに眠ってください」と呼び掛けたり、多くの家で長期間霊魂の供養をしたりしておりますが、それは霊魂の存続を前提にした習俗ではありませんか。
とにかく、この世の年数は限られていますが、死後の年月は長く長く続きますから、永遠と呼んで不当ではありません。その永遠がどんなものか、世間一般の人は“分からない”というのが偽らざる答えでしょう。少なくとも、楽しいものでないことは何やら察しているようです。だから、今のうちに(この世の命があるうちに)精々楽しんでおこうと考えるのではないでしょうか。「明日は死ぬんだ。さあ、飲み食いしようではないか」というヤケ気味で享楽的な生き方になるのです。そこからは、希望も建設的な生き方も出てきません。
ところが、このような人間の生を救うために、キリストの神が来て言われました。「父(なる神)のみこころは、子(キリスト)を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたし(キリスト)はその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます」(ヨハネ6:40)
死ぬことは、いったん死んでも無に帰するのではなく、また、死んだままにしておくのでもなく、終わりの日によみがえらせてくださる、永遠の命を持つようにしてくださるというわけです。ただし、これは子(キリスト)を信じることが前提です。永遠は不可能だとハナから諦める必要はありません。キリストを信じさえするなら、永遠の命が与えられるのです。
その永遠は、楽しさや喜びに満ちあふれるところ、死や苦しみといった厭(いと)わしいものが一切ないところです。途中、パラダイスで待ち合わせの時がありますが、最終的な行き先、落ち着き先がそこ。明るい、希望に満ち、生きがいと喜びに満ち、まさに永遠に命が満ちている所なんです。
この世の短い間をはかない享楽で精いっぱい楽しく過ごすために、永遠の時の、永遠の命を棄ててしまうのはもったいないじゃないですか。これが絶対にないと決めつける証拠はありません。うそか真か、信じてみてはどうですか。信じて損をすることは何もない、逆に、あればしめたものじゃないですか。聖書の約束、キリストの神の言葉の方に懸けてみる方が賢明ですよ。
マラソンの中継番組をテレビで見てごらんなさい。苦しくても、ゴールを目指して走り続けるでしょう。行き先をはっきり見ている人はダレることがありません。まして、その行き先が、楽しくて栄誉に満ちたものであれば、一生懸命走り通せるのです。それを絵画的に言うと、
♪(キリストの)黒い瞳が待つよ、あの森 越せば
走れトロイカ 今宵は楽しい 宴(うたげ)♫
あの森さえ越せば楽しい宴(うたげ)が待っているのです。今、楽しくなくても、今、吹雪の中でも、走り続けようではありませんか。
人がどう生きようと「すべて死んでしまって終わり」では良く生きる意味がありません。「キリストを信じるなら(この世ではともかく)永遠に続く世で必ず良く報われる。悪く生きるなら、結局は必ず悪く報われる」。これが神の公義であり、世界の大原則です。
これによって、この世の人生の不平等も、またこの世の人生の不条理も、この世の人生の運・不運も、またこの世の人生の不満足も、よい解決を与えられるのです。すっきりと納得のいく人生、大満足の人生となるのです。聖書はこのことを固く約束しています。
神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル11:6)
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