2018年2月、今年も忘れ難い月となりました。2月3日から21日までの沖縄訪問宣教を中心に、1つの大きな見通し(戦略)が、あらためて私のうちで確立しました。
以前から、沖縄で聖書を読み、聖書で沖縄を読む、沖縄における25年間の歩みが、「聖書をメガネに」基盤を置くクリスチャントゥデイでの営みの土台となっている事実は常々深く自覚しておりました。ところが今回、クリスチャントゥデイを中心に直面している事態と、沖縄で起こっている事々が同時に進行していると深く心に刻んだのです。
また、両者で生じている事柄は、スケールの大小の差はあっても、両者の根底にある1つの類似性を認識し、創世記3章の有名な、エバへの蛇のいざないの記事から、Ⅱペテロ2章のにせ預言者の記事まで聖書を貫く、情報の混乱と真実を見抜く洞察力こそが問われていると確認しました。この課題に直面しながら、クリスチャントゥデイの現場でどのように対処すべきか、ことはまさに聖書解釈、聖書神学の生きた課題なのです。
2018年2月沖縄での日々、私の視点から
2月3日、名護市長選前日、夕方に那覇空港に着き、沖縄時代、主にある深い交わりを重ねることを許された那覇聖書研究会のS姉の出迎えを受け、定宿の那覇新都心東横インへ送っていただきました。
2月4日の主日は、ここ数年続いている通り、無教会の那覇聖書集会で宣教担当。ヘブル10:32~39に焦点を絞り、「確信と忍耐」との主題で、心行くばかり御言葉を味わいました。第1主日同様に、第2主日は沖縄バプテスト連盟ジョイ・チャペルで、第3主日は名護チャペルの主日礼拝で宣教担当、喜びの機会でした。主日礼拝、大小の集会における直接の聖書の学びに加えて、しばしば会食と合わせての各種の面談は、今回も恵みの機会でした。
今回1つ特別なことは、2月5日、名護市長選翌日の午前中、県庁を訪問、知事公室秘書課の方に、翁長知事宛ての手紙と「喜びカタツムリの便り」を委ねたことでした。沖縄に対するインターネット上での、一方的、私から見ると無責任な言いたい放題の発信がなされている実情を見聞きする中で、私なりに、平和、平和の神学を基盤・中心としながら、神学全体を有機的に受け止め、正しく、深く、豊かに把握、その生きた神学を生活しながら発信する営みを継続したい。日本近現代の歴史の中で、身をもって平和の神学を把握し発信してきた、敬愛する先達内村鑑三に学ぶ、ささやかな歩みの報告を含む、エールの手紙です。
上記の私の理解と実践について、私と異なる判断があることを承知しています。
2018年2月クリスチャントゥデイをめぐる日々、私の視点から
2月3日の出発前、1月10日の編集会議では、クリスチャントゥデイへ繰り返される否定的な評価をめぐり論議がなされました。その席上、当時編集長であった雜賀信行兄が、日本基督教団議長声明が出される情報を何故か異常に恐れ、矢田喬大社長を軽視する言動を無視できず、「何をそんなにたじろぐのか、恐れることなど何もない」と私なりに明言しました。
編集会議の翌日、1月11日、雜賀兄が脳出血で倒れ、入院静養との報が伝えられました。さらに結果的には、その時から私たち夫婦が沖縄へ向かうまで、また沖縄滞在中、2つの核を中心に一連の事態が継続しました。
まず、1月27日付の日本基督教団議長声明。私は少しも驚きませんでした。しかし、日本基督教団の名誉を覚え、この声明が出されることを憂え、阻止しようと努力していた幾人かの尊敬する日本基督教団の牧師先生方の存在を知っていましたので、残念でした。
また、従業員の2人と、沖縄への電話でそれぞれ1時間、2時間の長い話をしました。ポイントは1点です。矢田社長と内田周作副編集長の異端信仰の嫌疑(私には一方的断定と聞こえましたが)と、2人がその否定の機会を避けているとの指摘です。
2014年4月、クリスチャントゥデイ編集長を引き受けた理由が、それ以前1年間、ほとんど毎週1回面談を続ける中で与えられた矢田社長に対する信頼と、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」との覚悟であることは、私が一貫して言明していることです。ですから、その後他の2人の方からのメールも、さらにはその後2月8日付従業員声明そのものも、私には何ら決定的な影響を与えません。
従業員声明を通して見える、雜賀兄や中橋祐貴兄の短時間の私にとっては不自然な豹変は、伝え聞いた情報ではなく、編集会議を中心に私自身が目撃してきたことです。その事実とそこから生じる従業員声明についてキリスト新聞やクリスチャン新聞の応答の速さは、これらの動きの一切が無関係と見ることを許さないほどのものです。
従業員声明に対する私なりの理解については、私のブログで時間をかけて展開する予定です。
以上の一連の動きに対して、私の助け励ましとなったのは、先達の聖書解釈、特にアウグスティヌスの聖書解釈です。昨年、以下の文章をクリスチャントゥデイに掲載しました。再掲載します。
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聖書をメガネに 『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』に学ぶ基本メッセージ 宮村武夫
かなり長時間をかけて熟読、やっと、あるいはついに読了しました。いろいろ線を引いたり、書き込みをしたりしました。ですから、本書の細部からも、新鮮な示唆を幾つも受けました。
しかし、今回報告したいのは、私なりに把握できたと判断する本書の中心点です。著者は、「悪」を軽視も、まして無視もしない。本書の副題、「虚偽と邪悪の心理学」が、この事実をよく表現しています。
悪の実態は、本書の書名、「平気でうそをつく人たち」が、物の見事に指摘します。そうです、うそです。
(1)あることをないかのように言う
(2)ないことをあるかのように言う
この両面を持つ1つの実態(参照:ヨハネ8:44)。しかし、同時に注目すべきは、著者は、善悪二元論のように、悪を絶対視しないのです。
本書と並行して、毎日の「宮村武夫牧師5分間メッセージ」準備の1つとして読んでいるアウグスティヌス著『ヨハネによる福音書講解説教2』の66、67ページが、1つの明確な手引きを与えてくれました。ヨハネによる福音書6章70、71節に見るイスカリオテのユダについての記述を講解している文書です。
私なりに要約すると、以下の二点を含む恵みを無駄にする(Ⅰコリント15:10)事実と、それさえ善用なさる神の恵みの深さです。
(1)悪、悪人は神のすべての善を悪用
(2)神は悪人の悪しきわざをも善用
「悪人は神のすべての善を悪用し、それに対し善人は悪人どものなした悪をも善用する」
「主は彼の悪事を善用したもうた。主はわたしたちを贖(あがな)うために、自分が裏切られるのに耐えられた。見よ、ユダの悪事は善に変えられた」
(アウグスティヌス著『ヨハネによる福音書講解説教2』66、67ページ)
M・スコット・ペックが本書において提示しているのは、アウグスティヌスが聖書の講解で提示している善と悪の関係であり、最後には善が勝つという希望についての彼独自の心理学的説明です。そうです、悪は愛によってのみ封じ込め得るとのメッセージです。
1963年から72年まで、M・スコット・ペックは、沖縄勤務を含む9年間、米軍所属の精神科医として働いています。その間に、米国のベトナム政策やベトナムでの米軍の行動に大きな疑問を持ち、そうした経験と思索を通して、本書5章「集団の悪について」が記述されています。
私は、1963年から67年、ニューイングランドに留学。1986年から2011年まで25年間沖縄に滞在したこともあって、上記の「集団の悪について」の記述が心に深く刻まれました。
M・スコット・ペック著、森英明訳『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』(2011年、草思社文庫)
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沖縄での現状。そして小なりとはいえ、クリスチャントゥデイをめぐり生じている事態。そうです、その両者は、創世記3章の有名な、エバへの蛇のいざないの記事から、Ⅱペテロ2章のにせ預言者の記事まで、聖書を貫く情報の混乱の中で神の恵みの事実を見抜く洞察力の課題と結びつき、クリスチャントゥデイも、その課題に応答を問われています。
(1)どんな大きな人、権力にもたじろがない。
(2)どんな小さな人、小さなこともあなどらない。
たじろぐ者が、しばしばあなどる者になると自戒し、主に支えられて、直面する課題に応答したいのです。アーメン。
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