小林高徳先生は、私にとって忘れがたい教え子の1人です。1986年、沖縄へ移ってしばらくしてから、沖縄から東京基督教短期大学(TCC)と東京基督神学校の両方の授業を担当する期間がありました。小林先生は、東京基督神学校の学生として、熱心でしかも鋭い授業への応答をなさっていたことを記憶します。
沖縄からの距離のため、それまでのような授業以外での学生との交流は、制限がありました。その分、私なりに、先達の方々から学んだことを私の生活と生涯を通して学生各自に伝達したい思いを強く持っていました。その集中的な願いに対する手に取るような応答を授業の場で感じていました。それが単なる感じではなく、小林先生の存在そのものに深く伝達されていた喜びを、先生の書評を通して教えられ、深い慰めを受けていました。
誤解を恐れないで言います。すでに天に召された恩師や同僚たちと生死の境を越えて日々聖徒の交わりを続けているように、小林先生の突然の召天によって、ハイデルベルク信仰問答が指し示す私たちをつなぐ唯一の慰めは微動だにしないのです。今後、小林先生との交わりがますます深められることを確信します。聖なる公同の教会を信じ、聖徒の交わりを喜ぶ幸いです。感謝。
以下は、小林先生の『本のひろば』(2015年10月号、一般財団法人キリスト教文書センター)誌上の書評です。
宣教のことばは、会衆の魂を養う牧会の業
宮村武夫著『ヨハネに見る手紙牧会―その深さ、広さ、豊かさ』宮村武夫著作8
宮村武夫先生の説教集を読むと、神のみことばを生きようとする熱いこころに触れて、魂の震撼(しんかん)を覚える。それは、終末における完成を視野に入れつつ、みことばを「今ここで」教会の礼拝において聴き、それに従おうとする説教者の教会への愛が紙面からにじみ出るからに他ならない。
神学校で先生から受けた聖書解釈学の授業は、評者には救済論的意義があった。歴史的・文法的聖書釈義の方法論を学んでゆく中で、「かつて、あそこで」書かれた聖書の今日的メッセージを読み取ることが困難になっていた。そんな時、ゲオハルダス・ヴォスの著作を教えられた。旧約と新約をつなぐだけでなく、歴史上過去のテキストと読者の現在をつなぐ聖書神学的救済史の視点は、「今ここで」聖書のみことばを読むことを可能にしてくれた。宮村先生の説教は、30年前に伺った同じ原則に貫かれている。
本著は、沖縄の首里福音教会でなされたヨハネ書簡からの主日礼拝説教集である。2000年アドベントから2001年10月末まで、礼拝において語られた神のみことばが、キリスト者・教会において受肉してゆく。「今、私たちはⅠヨハネを、主日礼拝ごとに読み進めています。その目標の一つは、兄弟愛を私たちの心や生活に、そして生涯に刻み付けて頂く、この一事のためです。」(63頁)この明確な目標の下に、ヨハネの手紙第一の綿密な講解説教が続けられている。キリストの受肉と十字架の死と復活による福音を蔑(ないがし)ろにする誤った教えと闘い、互いに愛し合うことでキリストの愛の現実を、父なる神とキリストとの交わりの豊かさを示そうとしたヨハネの意図が紐解(ひもと)かれてゆく。
宮村先生の説教は、堅固な釈義を土台とし、ブレがない。それを、理路整然と、しかも簡潔に会衆に届くようにとの配慮がにじみ出る。一週間の戦いを終えて集った信仰の群れを、みことばによって慰め癒し、これから一週間の戦いに出てゆく一人ひとりをみことばによって整え、励ます牧会者の姿がそこにある。「私たちはひとりひとり、それぞれの一週間の経験を身に帯びて、この主日礼拝の場に導かれ・・・<中略>・・・またこの礼拝の場から、主なる神が派遣してくださる持ち場・立場へと進み行き、派遣された場で礼拝の生活を継続」(256~7頁)する。宣教のことばは、会衆の魂を養う牧会の業なのである。
紡ぎだされた説教には「宮村節」とも呼ぶべき珠玉の表現があふれている。「聖霊の助けに導かれ、祈りを通して、神の言葉・聖書が心、生活、生涯に決定的に刻まれ、実を結ぶ。若者だけでなく、この私も。」(71頁)「祈りは仕事、大きな仕事であること」(165頁)。「聖書に基づき、主なる神の言い分、ご意志に従うのです、神の恵みから自分を見るのです」(139頁)、等々。それにしても、「恵み」への言及がなんと多いことか!「福音を宣べ伝える恵み」に「各自を根底から支える恵み」。「一方的な神の恵みにより選ばれ、導かれている」との述懐。まさに、「恵み」のオンパレード。講解最後も、「父、御子、御霊なる神の愛の交わりに与(あずか)る驚くべき恵みの提示、これが福音、喜びのおとずれです」(260頁)と、第1ヨハネ全体を「恵み」に集約する。神の恵みに依り頼むキリスト者をそこに見る。
本説教集の根底にあるのは、神のみことばと聖霊による教会形成と改革という宗教改革に由来する原則。その信念に立ち、「聖書と矛盾する聖霊の教えなどない」(240頁)と喝破(かっぱ)する。ヨハネ書簡を、ヨハネ福音書が引き合いに出されるだけでなく、他の関連する聖書箇所を多く用いて解釈が進む。聖書を(他の)聖書(箇所)によって解釈することが実践される。
ヨハネの手紙第二・第三の講解説教に加えて、巻末には、遠藤勝信氏との間に交わされた、神のみことばからの説教についての真摯(しんし)なやりとりが載せられている。
本書は、個人での学びと黙想のために、聖書の学び会のテキストとしても有益だ。特に、説教による牧会を試みる説教者にお勧めしたい。「恵みのみ」「聖書のみ」「信仰のみ」の原則に貫かれた、人となられた神のみことばなるキリストとの生きた交わりが、そこにはある。
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