聖書的エキュメニズムについて考える歩みは、今にして思えばキリスト信仰に導かれた高校時代に始まり、生涯一貫していると理解します。しかし、その実践の面では、1986年4月に沖縄へ移住してからの25年間が、やはり私にとっては大きな意味がありました。それ以前の関東での生活は、自分の意識を越えて、いわゆる福音派の枠内が中心であったことを認めます。
2009年、教え子の有志の方々が中心となって宮村武夫著作集刊行の計画がなされた際、出版社の言葉がその1つの証拠です。「宮村先生の名前は、福音派以外ではほとんど知られていません」との言葉は、確かに私の経験の限界を明示していました。
ところが沖縄では、日本基督教団の先生方をはじめ、それまで接触のない諸教派の方々と親しい交わりを持ちました。また、それまで福音派を対象としていた沖縄聖書神学校は日本基督教団をはじめ沖縄の諸教会全体を対象とする神学教育機関への道を歩むべきとの提唱をなす機会を与えられました。
さらに、2000年の日本伝道会議の沖縄開催に対する沖縄側の受け取り方が積極的な意味を持ち、それ以前からの積み重ねもあって具体的に沖縄宣教研究所の誕生と継続的な営みを導きました。その過程で、無教会からカトリックを含む、沖縄キリスト公会(THE UNITED CHURCH OF CHRIST IN OKINAWA)の在り方を提唱しました。
もちろん、耳を傾ける方々はごく少数でした。しかし、最も重要な指導者として敬愛する方が重く受け止め、その意味を発言してくださったのは深い慰めでした。また、沖縄キリスト公会の実現のためには、沖縄にしっかり根差し、沖縄を越えた日本全体、アジア、さらに世界に開かれた神学教育機関が鍵であるとの合意が少しずつ広がりつつあることも慰めでした。
思いを越えた経過で、2011年5月、沖縄から関東へ戻ってから、これまた思いを越えた恵みが与えられました。それ以前から積み重ねられてきた栃木県宇都宮でのキリスト教一致祈祷会を中心に、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」の恵みを体現する機会を与えられつつあります。
以上の沖縄25年とその後の関東での、それなりのエキュメニカルな歩みの実践の中で、私のうちにある1つの基盤を深く自覚するようになっています。そうです、徹底的な聖霊信仰と徹底的な聖書信仰の確信とそれに基づく生活・生涯の実証です。
アッセンブリー教団の教会で教えられた聖霊信仰は、年とともにますます深く広く豊かに自分の中に染み込んできたことを自覚します。その場合、聖霊信仰の根底には、聖霊ご自身の導きで記録された聖霊ご自身の言葉である聖書の下に自らを置いて従い生きる姿勢の確立なくして聖霊信仰はあり得ないとの素朴な確信。同時に、聖書の解釈、それに基づく生活と生涯は、聖書の著者である聖霊ご自身の導きなくしてはあり得ない。神学活動を含めたあらゆる営みは、徹底的に聖霊ご自身の導きに依存する、これまた素朴な確信。
かくして、徹底的な聖霊信仰と徹底的な聖書信仰を内実とする「聖書的」と「エキュメニズム」は、私の中で一体なのです。このような聖書的エキュメニズムこそ、使徒信条で告白する「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」を信ずる道と自覚し、この道を最後まで進む覚悟を深めています。
この道を歩む推進力の1つは、私なりにそのうちに生かされてきた、いわゆる福音派の在り方に対する問題意識です。組織の教会形成の中で、人事と経済が現実においては必要以上の重きを持つ事実とその問題性を、半生を注いできた教会組織から離れる修羅場を通して深く教えられました。牧師館や牧師給から離れても、なお祈りはもちろん祈祷会は持てる。聖書の学びはもちろん聖書の伝達はできる。聖霊ご自身と聖書の導きは、必ずしも人事と経済を必要不可欠とはしないとの小さな、しかし、かけがえのない経験でした。
組織としての教会から離れるばかりでなく、神学校教育からも離れることになりました。この場合も、神学校教育から離れることは、神学教育から離れることを意味しない。聖書をメガネにしてすべてを見ていく営みそのものが神学であり、いつでも、どこでも神学教育は可能である。この意味で神学教育がなされるとき、人間は人間となり、私は私となる素朴な喜びです。
「聖なる公同の教会・エキュメニズム」が中心にならず、福音派との意識が主流になると、「福音派唯一の大学」などとの表現がなされたり、1つの立場に就くために福音派の教会に教籍を変える必要が主張されるなどのことが起こってしまう。こうした足元の課題と直面しながら、不足、欠如の恵みに応答して、「ああ神の前に われ勤(いそ)しまん 業(わざ)終(や)むる時の 間近き今」の道を歩ませていただきたいのです。
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