「信教の自由を守る日」(2月11日)に合わせ、日本バプテスト連盟北関東地方連合社会委員会は12日、ふじみ野バプテスト教会(埼玉県富士見市)で2・12集会「迷い出た一匹の羊を求めて 沖縄の問題に目を向けて」を開催した。同連合は終戦記念日の8月15日と共に、毎年この時期に集会を開催しており、この日は同連合所属の諸教会から約40人が参加した。
イエスと歩む沖縄 平良修牧師
今年は特に、米軍基地の問題がある沖縄に焦点を当てた。集会の初めには、この問題に長年取り組む平良修牧師(日本基督教団うふざと伝道所)を取り上げたNHK・Eテレの番組「こころの時代 イエスと歩む沖縄 平良修牧師」(2013年12月放送)のDVDが流された。
沖縄・宮古島で生まれた平良牧師は少年時代、軍国教育の下で「一般的なレベルの日本人以上の日本人」になろうとする「優等生」だった。しかし、疎開先の台湾で敗戦を迎え、日本人としてのアイデンティティーが大きく崩れる。当時は中学生で、学校ではそれまで日本人からいじめられていた台湾人がひどい仕返しをしていたが、平良牧師だけは「おまえは琉球(出身)だから別だ」と言われ、被害に遭わなかった。生まれて初めて「自分は何人なのか」と考えさせられたという。
宮古島に帰島すると、以前の軍国教育は手のひらを返したように変わっていた。「あれほど信じていたものが、そうではなかったことが分かったときに、本当に信じていいものがあるのか。それは何なのか」と求める心が起こったという。そんな平良牧師に答えを与えてくれたのが、友人に誘われて行った教会で出会った国仲寛一牧師(日本基督教団宮古島教会初代牧師)だった。
「本当に確信を持って語る人の顔に出会ったのです。疑わないというか、迷わないというか、確信そのものの言葉を語る人物に会ったのです。それで、うれしそうな顔なのです。人間というのは、こんなにうれしそうな顔ができるのかと思いました。(中略)少なくともこの人は、本当のことを語っている、自分の信じていることを語っていると思いました。それに私は打たれたところがあります。私の理屈を超えた、私の知らない真理というものがあるだろうという謙遜な気持ちを持っていましたから、だから、そこに触れたわけです」
そうして、高校3年の時に洗礼を受けた平良牧師は、大学進学のために宮古島を離れることになる。その直前に、肺結核のために病床に伏せていた国仲牧師の元にあいさつへ行くが、そこで唐突に「平良君、教会の後を頼む」と言われた。受洗後まだ1年もたっておらず、進学のため1週間後には宮古島を離れる状況だったが、「分かりました」と言うしかなかったという。その数年後、平良牧師は米軍の教会から寄付を受け、東京神学大学に進むことになる。当時はまだ沖縄は日本に返還されておらず、パスポートを持っての「留学」だった。
イエス・キリストとの第2の出会い
牧師となって沖縄に戻るが、招待されて米軍の基地内を見たとき、敗戦後の悲惨な沖縄と比べてそこはまるで御殿のようだったという。その時の自分について、沖縄の住民を足で踏み付ける米軍側にいたと振り返る。その後、米国へ留学するが、黒人教会で歌われていたゴスペルに衝撃を受けた。当時、公民権運動が高まりを見せていた米国で、黒人たちが歌っていたのは「Nobody Knows the Trouble I've seen(誰も知らない私の悩み)」という歌だった。「自分たちの悲しみは誰も知らない。知ってくださるのはイエス様だけ」という内容で、その姿は平良牧師に沖縄のことを強く呼び起こした。
「自分の苦しみを知ってくれという激しい歌が、沖縄でも歌われていた。それが私の耳には届いていなかった。知ってはいるけど、私の耳に届いていなかった。私の歌にはなっていなかった」
これが平良牧師にとって、イエス・キリストとの第2の出会いだったという。苦しむ沖縄の人々の中に「小さなキリスト」を見いだし、共に歩むことを決心した平良牧師は1966年、当時米軍統治下の沖縄で最高権力者の立場にあった高等弁務官の就任式で、「これが最後の高等弁務官になりますように」という有名な祈りをささげる。沖縄の人々には共感を持って受け入れられたが、米国のメディアは牧師が政治と宗教の二股をかけたと批判的に報じた。
この中で平良牧師は、沖縄が本来の「正常な状態」に戻るようにとも祈っている。その当時は、異常な米軍支配から解放され、平和憲法を持つ日本に復帰することこそが「正常な状態」に戻ることだと考えていた。果たしてその6年後に沖縄は日本に復帰する。しかし、現在に至る沖縄の状況を見るとき、今のような状態が沖縄にとって正常といえるのか。そうした問い掛けを胸に、今も存続する米軍基地に牧師の立場から反対しているという。
安息日の労働が禁止されていたユダヤ社会で、病人を癒やしたイエス・キリストが語ったのは、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2:27)という言葉だった。平良牧師はこのイエスの姿勢について次のように言う。
「あえて彼は人間のために伝統を破ったのです。習慣を超えたのです。法律を破ったのです。そういう意味では彼は過激です。(中略)でも、問題はどこに向かっての過激派なのかということ。何のための過激派なのか。それはやはり、人間を大事にするということなのです。そこに向かっての彼の過激な生き様があったのです」
また、現在の教会は「自分たちの信仰の狭さでもって、キリスト様を狭くしている」と言い、自身は「教会派」でも「社会派」でもなく、「イエス・キリスト派」だと話す。「人間を大事にすることを抜きにして、神を大事にすることはありえない、というのが私の信仰です」
本土復帰以降最大の土地返還後も沖縄の基地負担率は7割
平良牧師のDVDを見た後には、聖学院高校数学科教員の西浦昭英氏(カンバーランド長老教会高座教会会員)が、沖縄の現状について報告した。同校は、沖縄での「平和学習修学旅行」を30年余り続けている。この日はパワーポイントのスライドを使い、沖縄の米軍基地に関する概略を説明した。
沖縄では2016年12月、北部訓練場(約7500ヘクタール)のうち約4千ヘクタールが返還された。これは、沖縄の本土復帰(1972年)以降、最大規模の返還だった。しかしその後も沖縄は、依然として国内にある米軍基地の約7割を負担している。また72年までに、本土にあった米軍基地は約85パーセント減ったが、その一方で、沖縄における米軍基地は2倍に増加した。その後も本土における返還率と、沖縄における返還率には大きな差があり、本土にあった米軍基地が沖縄に移動させられていった経緯があると語った。
また、本土と沖縄の米軍基地の特徴として、土地の所有者の違いがあることを説明した。本土の場合は、かつて日本軍が基地として使用していた土地が米軍基地として用いられた。そのため、国有地が約87パーセントを占め、残りのほとんどは公有地で、私有地の所有者は10人程度だという。一方、沖縄における米軍基地は戦後拡張されたものが多く、国有地、公有地、私有地がそれぞれ3分の1ずつ分け合っているような状況で、私有地については約3万人の土地所有者がいるという。
米軍駐留費の負担についても、ドイツや韓国、英国などと比べると日本が突出して多いことを指摘。輸送機オスプレイの飛行については、米国領のハワイでは環境保護団体や住民の訴えなどを受け、運用が中止されているのに対し、沖縄では反対しても依然として運用されているという、差別的な二重基準を訴えた。
集会ではこの他、沖縄の現状を少しでも知ってもらおうと、沖縄の自治体が発行している米軍基地に関する冊子や、平良牧師の過去の講演録、沖縄現地紙の報道など、さまざまな資料が配付された。そして最後には、同連合社会委の委員長である大島博幸牧師が、次のように祈って集会を閉じた。
「主よ、私たちを今日こうして集めてくださり、沖縄のことに思いを寄せ、耳にし、目にし、学び、知ることができました。平和をつくり出す者は幸いと語られたあなたが、今日も私たちにその思いを与えてくださり、平和への歩みへと導いてくださっていることを感謝します。それぞれの教会に帰り、またあなたの御言葉に触れ、あなたの思いに触れて、平和をつくりだす者として私たちを整えてください」