15回の逮捕歴、3回の服役経験がある前科7犯の元ヤクザ、進藤龍也牧師(「罪人の友」主イエス・キリスト教会=埼玉県川口市)の人生は、その経歴もさることながら、壮絶だ。3回目の服役中に聖書に出会い回心。出所後、神学校を卒業して牧師の道を歩み始めるが、その矢先に実父を自死で亡くした。牧師として初めて挙げた葬儀が、実父の葬儀だった。それから十数年たった昨年3月、今度は最愛の娘を自死で亡くした。一時は牧師を辞めることも真剣に考えたという進藤牧師に話を聞いた。
――生前、娘さんとは同居していたのですか。
いいえ。娘は、僕がまだヤクザだったころ、2回目に結婚した妻との間の子どもでした。服役中に生まれた子どもで、離婚する時に前妻から娘には会わないように言われ、しばらく会うことはありませんでした。娘にも「お父さんは死んだ」と言っていたようです。ところが、娘が小学生になったときに会う機会がありました。その時は何も言ってなかったのに、「あの人、お父さんでしょう?」と前妻に何度も聞いたそうです。そして、観念した前妻が本当のことを打ち明けたらしいです。
それからも会うことはなかったのですが、彼女が高校生になったとき、母親との関係が悪くなり、前妻から突然、「娘を1カ月預かってほしい」と言われました。その時が初めて、親子で過ごした時間でした。僕はもうその頃は牧師で、娘はその1カ月で聖書にも興味を持ち、さまざまなことを学んだので、洗礼まで導くことができました。
――その後も度々会っていたのですか。
度々というほどでもなかったですね。母親との関係が悪くなると私の所に来たりね。そんなこともあり、ここ2年前くらいから、たまには教会に来るようになり、受付の奉仕をしてくれ、教会のメンバーにも愛され、よくやってくれていました。昨年3月で20歳だったので、成人式の写真を撮ったり、家族でハワイに行ったりと、とても楽しい時間を過ごしました。
――突然の訃報だったわけですね?
3月11日、東日本大震災のために祈っていたところに前妻から「娘が亡くなった」と電話がありました。娘は当時、一人暮らしをしていて、連絡が取れなくなった勤め先や友人が不審に思って、アパートを訪ねてくれたらしいです。見つかった時にはすでに腐敗が始まっていたようで、警察の推定では、3月7日に練炭で命を絶ったのでは、ということでした。その日の早朝、成人の祝いの帰りに全財産を紛失したと言って警察に届けを出しています。いろんなことがあり、パニックを起こしたのかもしれません。4日が誕生日でしたから、それからわずか3日後のことでした。20年と3日の生涯でしたが、「よく生きたよ!」と、ねぎらってやってほしいと葬儀で語りました。精神的な病で苦しんでいましたが、良くなったと思った矢先のことでした。
――葬儀は前妻のご家族が?
そうですね。前妻はクリスチャンではなかったので、彼女の宗教に従って、ということでした。僕は彼女の家族に顔向けできないほどひどいことをしてきたので、葬儀には行けないと思っていたのですが、呼んでいただいて、冷たくなった娘と対面することができました。
――お父様と娘さん、お二人を自死で亡くされ、さぞかしおつらかったと思います。
それは、どんな死に方でも愛する人との別れはつらいですよね。特に自死と事故は突然だから、本当につらい。でも、父の自死の時に僕が学んだのは「自分も含めて、誰も責めてはいけない」ということです。「何で気付いてやれなかったんだろう」「もっと話を聞いてやればよかった」など、周りの人、遺族は自分を責めてしまうんですよね。悲しむ暇がないくらい、自分を責めたり、周りを責めたりします。
――先生もご自身を責めた?
父の時は、責め続けましたね。これは、つらかった。もうその時は牧師の端くれでしたから、牧師として初めて挙げた葬儀でしたが、説教では「皆さん、親父の死は誰のせいでもありません」なんて話していました。でも、自分を責め続けました。その時の教訓があったので、娘の時は、自分を責めちゃいけないという思いがありました。しかし、今度は教会がぐらぐら揺れ始めたんです。「何でこんなことが起こるんだ」とか、「牧師の娘なのに、何で救ってやれなかったんだ」とか言われ始めて、悲しみに追い打ちをかけたような形になりました。もう誰とも会いたくなかったし、大好きだったはずの教会にも行きたくなくなってしまいました。「もう牧師は辞めよう。自分には御言葉を語る資格はない」と思って、暗いトンネルの中に入っていきました。
――そのトンネルからどうやって抜け出したのですか。
ちょうど、娘の召天礼拝の前日に、私のメンターでもある中野雄一郎先生が来てくださって、僕にこんなふうに言ってくれたのです。「安心しなさい。絶対に僕が守るから。君を絶対に辞めさせたりしない」。涙が出ましたね。こうやって、一緒にいてくれる人がいて、励ましてくれる人がいるんです。
私のつらい状況を察知してくれた慎征範伝道師からは、「電話のつながらない海外にでも出て、休んでください」と助言をもらいました。それから、たまっていたマイルを使い、妻とグアムに数日旅行に出たのですが、ただ毎日、祈り、聖書を読み、ディボーションをして過ごしました。グアム滞在は気持ちを変えるために有意義でしたが、「娘が死んで断食するなら分かるけど、海外旅行に行くなんてとんでもない」という、心ないうわさも聞こえてきて本当に傷つきました。しかし、赦(ゆる)しを宣言して、傷つかないことを選びました。
そして、近くのグアム日本人教会の祈祷会にふらっと立ち寄ったら、「先生、証しをしてください」と言うので、そこで初めて娘の死についても話しました。その時やっと、「やはり御言葉を語り続けなければ」と感じたのです。証しの最後には「僕は牧師を辞めません」と宣言していました。というのは、牧師を辞めるにしても続けるにしても、神の声と導きをしっかりもらおうと求めていたからです。
帰国後の翌週、大阪の八尾福音教会へ伝道に出たら、2人の家族を自死で亡くした方の相談に乗ることになり、神様から新たな召しを感じました。その方は30年間、息子さんの自死のために夫婦喧嘩を続けていました。
――日本は、まだまだ自死が多い国です。先生のこれからのビジョンをお聞かせください。
日本では、毎年2万人以上の方が自死を選ぶといわれています。その2万人にそれぞれの人生があって、その家族がいるわけですよね。僕と同じように悲しみ、苦しむ人が少なくても2万人、その倍、3倍、いやそれ以上いるかもしれない。僕は、神様から直接慰めていただきました。だから、こうして今、悲しみがないわけでないけれど、立ち上がることができています。家族の自死によって、何年、何十年と苦しむ人に会う機会があります。僕は、この方々が1日でも早く神様から慰められ、自分の人生を歩んでいただきたいと願っています。どんな親も完璧な人はいません。たとえ親が悪かったとしても、その親を責めても何の解決にもなりません。キリスト者として赦しを宣言して回復を目指していかないといけませんね。これが、神様から示された新たなビジョンだと感じています。自死遺族のために祈り、寄り添っていきたいと思います。