潮の香りがするエキゾチックな港町・神戸は、「住みたい街」として常に上位にくる都市でした。ところが、23年前の1995年1月17日、専門家を含め、誰も予想もしなかった悲劇が襲いました。「彼らは頭に塵(ちり)をかぶり、泣き悲しんで、こう叫んだ。『不幸だ、不幸だ、大いなる都、海に船を持つ者が皆、この都で、高価な物を取り引きし、豊かになったのに、ひとときの間に荒れ果ててしまうとは」(黙示録18:19)。まさに聖書の言葉の通りのことが起こったのでした。
まだ朝早い午前5時46分、内臓の位置が入れ替わるのではないかと思うほどの、突き上げるような大きな揺れに襲われました。私の自宅は神戸市垂水区にあり、家内はおびえていましたが、すぐに地震だと気付いたようで、ガスの元栓を閉めに行きました。「あなた、大変なのよ。起きて」と言われたものの、「もう少し寝かせてよ」と不精にも生返事をしました。心の中で「今寝ておかないと、数日、睡眠が取れないに違いない」と思ったからです。家の中は食器が散乱し、冷蔵庫の扉は開きっぱなしです。停電の中、家内は丹念に片付けをしていました。
午前9時半、「さあ、動くか」と自宅近くのJR朝霧駅に向かいました。当時は神戸で教会を始めたばかりで、キリスト教の宣教に情熱を持っていました。震災当日も、いつものように福音を伝えようと考えたのです。駅前で大きな声をはり上げ、福音を語りました。しかし、誰も足を止めて耳を傾けてくれませんでした。「ご通行中の皆さん、時は満ち、神の国は近付きました。悔い改めて福音を信じましょう」。寒風の中、毎朝しているように何時間も語りました。
被災し、これからどうやって生きていけばいいのかと、不安、恐怖、失望で打ちのめされている人々にとって、言葉で「愛」とか「神の国」とか「永遠の命」を伝えても、絵空事にしかすぎません。宗教の言葉などどうでもいいのです。彼らが求めていたのは、飲み水であり、毛布でした。暖を取るための器具や衣服であり、食べ物だったのです。伝道が実を結ばない無力感で、打ちのめされました。
1月23日には、一部のJR線が回復したため、保存食や飲料水を詰めたリュックを背負い、家内と須磨寺近辺を戸別訪問しました。日本基督教団須磨教会の牧師館は被害が大きく、牧師夫婦は共に鎮痛のあまり無表情でした。教会の英語塾で学んでいた子の家が近くにあったため、訪問しました。その子の姉が出てきて「よく来てくださいました」と、にこやかに家族全員が無事であることを話してくれました。3月10日以降は、神戸で最も古い小学校である明親小学校の避難所に夫婦で物資を届け続けました。
大地だけでなく、多くの人の人生を揺るがした地震は、私たち夫婦を、被災によって家族、家、仕事を失った人たちと「共生」し、「共苦」する歩みへと導きました。
一方、復興を推進する行政の動きはどうだったでしょうか。
震災翌日の1月18日、神戸市都市計画局は職員を集め、長田区内を自転車やバイクで巡回させました。なぜでしょうか。同区では、震災より10年ぐらい前から再開発の計画がありました。ハコモノを計画通りに建造できるか、震災でどれくらい建物が破壊されているかなどを調べるために、職員たちは必死で見て回ったのです。復興は、被災者の生活再建が基礎とされるべきです。まずはライフライン、そして経済的に体力のない零細企業や個人商店などを優先的に考慮しなければならないはずです。
しかし、行政は「創造的復興」と称して、神戸空港や地下鉄、最先端医療など大型プロジェクトを優先しました。10年前の計画を実現に至らせるために、復興予算や国から資金を、多くの反対を押し切ってハコモノ造りに使いました。「創造」は本来、無から有を生じることを意味しています。阪神・淡路大震災からの復興は決して「創造的復興」とは言えません。役人の名声欲を満たしたにすぎません。「禍(わざわい)の中に福あり。今までやりたいと思っていてもできなかったが、震災によって21世紀都市をつくっていくことが可能になった」と貝原俊民兵庫県知事(当時)は語りました。
長田区は、震災による火災で焼け野原となってしまいました。後に「奇跡の復興」と言われるように、再開発事業や区画整理事業が行われました。現在、数多くの超高層ビルやマンションがそびえ立っています。「アスタくにづか」という再開発地域の中心部には、立派なハコモノができました。
震災はまだ終わっていません。現在、「アスタくにづか」1番館ではシャッターを閉めた店が目立ちます。復興とは、景観が良くなったとか、町並みが元通りになったということではありません。被災者の心のケア、つまり心の復興が重要です。高層ビルに入居する商店の主人は高齢にもかかわらず、15坪ほどの小さな店で月額7万円前後の高い管理費と固定資産税を払い続けなければなりません。しかし、店のあるショッピングモールにはお客さんはほとんど入って来ません。年金から経費を払うともう何も残らないのです。生きていくこともおぼつかない人たちに、行政は「自助努力で頑張れ」と迫ります。弱い立場の人たちへの思いやりという視点が欠けています。
日本人は、ハコモノを次々と造ることで復興を成し遂げたと思い違いをしています。復興、復旧、再建。どんな言葉を使おうと、外見より「心の復興」が鍵なのです。復興予算でカネをばらまけば、ハコモノをはじめ、大都市が復活するかのような先入観があります。現場で被災者と涙を共有していない人の発想です。明治維新以降、モノで解決する価値観はすべての日本人に共通するアキレス腱です。老後の生活、夫婦の円満な関係、子どもや家庭生活においても、カネさえ出せば、自分は人間としての務めを果たしたと考え、胸をなでおろすのと同じです。
イエスご自身は、弱り果てた人々に心が揺り動かされました。
あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。(マタイ18:12)
また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐(あわ)れまれた。(マタイ9:36)
同じように、半死半生でうめいている人を見掛けたサマリア人は突き動かされました。
ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い(ルカ10:33)
被災した人々を「深く憐れむ」感情移入が大切です。「共感」する感性が求められます。行く先々で、物資などを提供することが中心であってはいけません。被災者の「縁(よすが)」「寄す処(か)」、つまり心のよりどころ、頼りとするところ、心の支えとして、「共生」「共苦」する精神態度が尊いのです。
1月17日になると、世の中では「もう何年たったか」、そして次に「もう23年もたっているのにまだ言っているのか」という声が聞こえてきます。しかし、当時40代前半だった方は、定年の年代です。60歳で被災した人は80歳を過ぎる後期高齢者です。そうした被災者に、神戸市や西宮市は、借り上げ復興住宅から立ち退きを迫る裁判を起こしています。終(つい)の棲家(すみか)から被災者を追い出すのに、行政は司法の力を用いています。
イエスがされたように、被災した人々との「対話」が生命線です。「うめき声」があれば現場に急行します。被災者に寄り添うのは役所の机の上ではできません。現場の弱った声に耳を傾けてほしいものです。寄り添うとは、徹底的に相手側の状況や都合に合わせます。「ボランティアはしたいが、今は楽しいことをしたい」という立ち位置に揺れ動くゆとりはありません。被災者と共生するのに、条件、資格、経験は問われません。ほほえみ、声の色、発する「氣」などの身振りを通じて、生き様を示すだけでよいのです。何々運動などではなく、個々の活動に基づきます。生き様ですから、誰もができます。
孤児、夫を亡くした女性、高齢の独居者との縁こそが、いかなる政策や改革よりも優先すべきことではないでしょうか。もちろん被災地へ行きたくてもいけない苦しみを「共苦」するのも「苦縁」です。「苦縁」なる「よすが」は、時間や金銭、仕事の「ゆとり」とも無縁です。災害大国日本で今、地縁や血縁、同じ学び舎(や)の卒業生だけでは救済できない貧者への責任が求められています。
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