出村和彦著『アウグスティヌス「心」の哲学者』(岩波新書、2017年10月)
古代教会の歴史を学ぶための入門書として最適!
昨年は宗教改革500周年であった。当然、プロテスタントは活気づく。しかしだからといって、カトリックが否定されたり、歴史的に意味をなさなかったというわけではない。
両陣営とも、「三位一体」や「恩恵」という概念を受け入れている。その根幹を築き上げたのがアウグスティヌスである。しかし、彼の著作をすべて読むにはかなりの時間がかかる。さらにそれを理解し、歴史的に位置づけるためには当時の哲学的思考をつかみ取らないと、これまた難しい。
そのため、アウグスティヌスという名前は聞くことがあったとしても、それが具体的にどんな人生を歩み、また彼が主張した神学的テーマが今の私たちの信仰をどう形成してきたかについては、専門家以外にはなかなか手の届かないところにあると言わなければならなかった。
しかし本書は、わずか180ページであるにもかかわらず、文献目録やアウグスティヌスの生涯年表まで付記され、しかも彼の人生を我がことのように読み進めていくことができる。いうなれば、アウグスティヌスの入門編である。
入門、というと基本的なことのみに終始しているような印象を与えてしまうが、これは正しくない。彼の言動を通して、キリスト教が初代教会時代からローマ帝国の国教へと発展していく時代の移り変わりが描き出されているのである。
全5章(序章と終章を加えると7章)のうち、3章(87ページ分)かけて彼の生い立ちが描き出されている。冒頭のところで私が大いに共感したのは、次の箇所である。
「ここでアウグスティヌスは、文法学者の目で聖書のテクストを見ている。聖書のテクストと古典のテクストとの境界に立っていたとも言えるかもしれない。しかしこのように聖書と古典との境界に立つことが、キリスト教と哲学とを架橋するアウグスティヌス独自の思考法につながっていくのである」
私たちは現代の視点からアウグスティヌスを見る。すると、どうしてもカトリック教会の重鎮、ヒッポの司教としての彼を見上げるようにして解釈することになる。「三位一体」を決定づけ、『神の国』という大著を世に出し、さらにペラギウスとの間でし烈な神学論争を展開した、「神学界の巨人」として、私たちはアウグスティヌスをヒーロー視してしまう。
だが、アウグスティヌスが「神学界の巨人」となるために、ひたすら聖書のみに固執していたわけではない、と出村氏は語る。アウグスティヌスは文法学者としての側面を持っており、この分野のエキスパートであったからこそ、聖書を「解釈する」ことができたし、そのような技能に優れていたからこそ、キリスト教と哲学との間に立ち、両者をつなぐ働きをなし得たのである。
少し言葉が悪いが、アウグスティヌスは単なる「神学バカ」ではなかったのだ。聖書に向き合うために、多くの引き出しを持っていたということであるし、だからこそ、他の学問とキリスト教との懸け橋となれたということである。
その遍歴が本書の半分以上を占めている。分かりやすく、彼の心の動き、何を求めて生きることを願ったのか、そのあたりがまるで映像化されたかのように手に取るように分かる筆致となっている。
特に私にとって僥倖(ぎょうこう)であったのは、長年理解できなかった「マニ教徒アウグスティヌス」の実像がやっとつかめた点である。マニ教の善悪二元論に魅かれたからこそ、それを誤りと結論付けたアウグスティヌスは、「自由意志」という彼独特の概念を生み出し得た、というあたりは、歴史の妙を感じざるを得ない。
人は直線距離で特進へと進むのではなく、一見すると右往左往しているかのように見えて、実は同じ問いに対する答えを模索しているのである。その足跡は、1つも無駄にはならない。これは、私たちから見ると「特別な人」であるアウグスティヌスであっても、私たちのような市井の人であっても、そこには何の違いもないということだろう。
4章以降は、司教となって以降のアウグスティヌスの業績がつづられている。少しでもキリスト教史に触れたことがある方なら、「ドナティスト論争」の件は面白く感じられるだろう。また、彼の代表作『告白』がなぜ書かれたのか、またどうして十数巻にまで膨れ上がったのかというトリビアを知ることができる。
ちなみに、私たちが「心」というときに、それが心臓にある、と捉えて、ハートマークを描くことが一般的だが、この起源はアウグスティヌスの哲学的思考にあったのである。ここで「へぇ~」、ボタンを何度も連射したくなるだろう(分かる方はテレビっ子です!)。
5章では、人間の自助の一環とされる「自由意志」を巡って、ペラギウスと対決するアウグスティヌスの姿が描かれている。意外だったのは、どうも両者の意見が真っ向から対立しているため、2人は犬猿の仲だったのだろうと勝手に思い込んでいたが、どうもそうではなかったことである。論争当初は、顔を突き合わせて語り合うこともあったようだ。論は違えど、人間としての礼節を重んじるあたりは、やはり人格者だったのだろう。
晩年、彼が『神の国』の執筆を思い至るあたりは、ローマ帝国の末期に当たり、やはりこれを書かずにはおれない事情があったことをあらためて認識させられた。それはゲルマン民族の大移動による西ローマ帝国の崩壊である。それによって多くのローマ市民が「難民」としてアフリカへとなだれ込んでくる。
これによって人々の間に巻き起こったのが、ローマ帝国がかつてのような混交的宗教観を捨て、キリスト教1本に舵(かじ)を切ったからこんなことになったのだ、という論調である。これに対してアウグスティヌスは真っ向から対決し、そして『神の国』を著すことになる。
彼の人生の集大成であると同時に、ある意味この時のために神がアウグスティヌスという人物を訓育してきたと考えられる箇所でもある。私は読んでいて、胸が震えた。
コンパクトに要点だけを知りたい、という方にお薦めなのは間違いないが、むしろこれを機に古代教会の在り方やキリスト教史の面白さの扉を開く方がどんどんと起こされることを願う。お薦めの1冊である。
出村和彦著『アウグスティヌス「心」の哲学者』(岩波新書、2017年10月)
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