「私は聖書に捕らえられてしまった。私の良心は神の言葉のとりこなのだ。聖書によるか、そうでなければなにか明白な論証によって確信を与えられない限り、私は自説を撤回できないし、またそうする気もない」。もちろん、自説を捨てさせるような確信を与えられるはずはなく、ルターは、自分の信念をひるがえしてはおりません。だが、教会側の反対があまりに激しかったので、彼はユンカー・ゲオルクの偽名を使って、ヴァルトブルク城の中に身をひそめざるを得なくなりました。しかし、ここで彼の最も重要な仕事である新約聖書のドイツ語訳を企て、この仕事は約1年後に完成し、1522年9月に初めて印刷されました。
ルターは厳格な宗教的雰囲気の中で育てられました。この環境にあって、彼は、罪を処罰し給う神の怒りにおびえるに至ったのです。エルフルト大学での彼の教育は、弁護士になるための準備でしたが、ここの教育は若いマルティンの魂の必要を満たしてはくれませんでした。そこで修道士になる決意をして(※1)、1505年の7月17日に、エルフルト市のアウグスチヌス派の修道院に入り、1507年聖職につきました。それでもなお、神学研究は彼に内心の平安をもたらしてくれませんでした。
彼は研究を続け、1512年に神学博士の学位を受けました。だが、この学位も、またローマへの巡礼も、神を知ろうとする情熱に燃えるこの男の心を満たしてはくれません。ルターの関心が、神学の哲学的論議から、聖書の宣べる真理へ移行したのはこの頃でした。ルターはその解答を、パウロの「信仰により義とされる」という宣言に見いだしました。教会の権威より大切なのは、聖書に明らかなようにキリストへの服従ということでした。
ヨハン・テッツェルが1517年に免罪符を売るためにヴィッテンベルクにやって来ました。免罪符を売って教会当局者たちは、お金と引き換えに罪を赦(ゆる)すと言って大もうけをしていました。これに対してルターは行動を起こす決心をして、ヴィッテンベルク城の入り口の扉に「95箇条の提題」を釘で打ち付けました。
ところが2週間もたたないうちに、この提題はドイツ中に広まり、ルターは思いがけず一躍有名になりました。ルターの支持者たちは、この宣言を喜んで大喝采しましたが、彼の敵は彼をけしかけて、なんとか異端の罪を宣告し、人気を落とそうと決意しました。時を置かずしてルターは、教会が貧しいものを虐待していると言って攻撃を始めました。
聖書に照らして教皇の権威の有効性を否定しました。また主の晩餐についてのローマ教会の考えを攻撃しました(ローマ教会では、パンとぶどう酒がイエスの肉体そのものになると主張していました)。そして、教会の改革を強く主張しました。その中には教会税の減額、托鉢修道会修道士の不行跡の抑制、聖職者の贅沢(ぜいたく)の廃止、非宗教政府の認可が含まれていました。
当然のことながら、ルターはこのことのために起訴され、1521年4月16日、ヴォルムス議会で裁判にかけられることになりました。しかし、反対者はルターから罪の告白も、主張の撤回も得ることはできませんでした。一時期、当局は、ルターが身を潜めなければならないような状況に追い込むことはできましたが、彼を黙らせることも、真剣な文筆活動をやめさせることもできませんでした。
ルターの説教が与えた力、また民衆の言葉に新約聖書を翻訳して出版したことが大きな刺激を与え、人々を一大運動へと駆り立て、市民蜂起と革命を引き起こしました。ルターは、このような混乱した激変は社会そのものの存在を脅かす危険があると恐れ、その結果、農民一揆を情け容赦なく押さえつけさせました。しかし、勝利を収めたのち慈悲を請うことも忘れませんでした。
このように心底彼の教えを受け入れたばかりか、それ以上のことをした人々に反対してルターの取った行動をどう判断すべきかは難しいことです。しかし、私たちが彼のこの態度に賛成しようが反対しようが、ルターが自身の解釈によって聖書の光に照らしてこの問題に対処しようとしていたことだけは確かです。
ルターは、ヴィッテンベルクでの教育を再開しました。また、結婚して敵味方ともに驚かせました。この間旧約聖書の翻訳を始め、11年の間この仕事に勢力を傾け、没頭しました。1534年になってやっと聖書全巻がドイツ語に翻訳され出版されました。
ルターは自分の翻訳が「主のための歌を、異教の地で歌う」(詩編137:4)べきだと強く主張しました。これは簡単な仕事ではありません。というのも、ルターの時代のドイツでは、聖書に書かれていることについて、知られていないことが多かったのです。ルターは、難解な語句を、そのままドイツ語に置き換えるだけでは満足しませんでした。ヘブライ語の文字をドイツ語のアルファベットで書いたところで、多少文字が見慣れているというだけのことで、見せかけにすぎないことを知っていました。
彼は旧約聖書の度量衡についての情報を得るためにユダヤ教の学者を訪ねました。また屠殺場を訪れて、旧約聖書の犠牲についてのさまざまな道具や屠殺の仕方などの用語を仕入れました。また、黙示録に出てくる宝石の名前を正確に知るために、王室の宝物を調べました。子どもたちが遊んでいるのを聞いたり、仕事中の職人の話を聞いたりしました。
こういったことをしながら、ルターは聖書翻訳に使える言葉をこつこつと集めていったのです。大学の教室や裁判所で使われているような学者ぶった仰々しい言葉ではなくて、民衆の言葉で翻訳すべきと主張していたのでした。
ルターの聖書は新しいプロテスタント信仰の礎石となったのです。プロテスタント(※2)のもともとの意味は「証しする」という意味です。というのは、これらの人たちが、キリストにある神の贖(あがな)いの恵みを証ししたからであります。この証しが1人のイングランド人ウィリアム・ティンダルに、ルターが自国に行ったことを、自分の国イングランドでも行おうとかき立てたのです。
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【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏
世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。
宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。
本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。
ユージン・ナイダ
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