ロンドン司教はやっきになっておりました。あのうるさいウィリアム・ティンダルがヨーロッパ大陸で出版した新約聖書がどんどんイングランドに密輸され、教会に対する反乱の炎を広げているのです。タンストール司教は、大陸に逃れ、この国の法律に戦いを挑んでいるこのイングランド人の捜査に着手しました。ティンダルは1525年(1)に英語の聖書を出版したのでした。
※(1)ティンダル訳新約聖書:1525年にケルンにおいて出版を始めたが、終えることができず、ヴォルムスに移動し、1526年に完成した。これがイングランドに密輸された。
タンストール司教は、聖書を読むなどという異端をイングランドから撲滅しようとしました。このために、家宅捜査が行われ、聖書は没収されました。聖書を持っている者は、異端として逮捕されました。また、この嘘(うそ)八百の教えをまき散らしている厄介者を捜し出すために大陸にまで行きましたが、隠れ家を見つけ出すことはできませんでした。しかし、オーガスティン・パキントンという貿易商に会うことができました。パキントンは司教のお役に立つ振りをして、輸入禁止されている本をかなり大量に入手できると約束しました。ただ、「ものがものだけにお安くはありませんよ」と注意するのを忘れませんでした。
パキントンはその足で友人ティンダルのもとに行き、ロンドン司教との取引について説明しました。早速、司教は残っている聖書全部を受け取る約束を得ました。しかし、実は、この翻訳のある部分はティンダルが改訂したいと思っていたのでした。司教が喜び勇んで出してくれた相当な額のお金で、ティンダルはまったく新しい改訂訳を出版することができたのです。
何百冊という聖書を持ってタンストール司教はロンドンに凱旋いたしました。ウルジー枢機卿は、ロンドンのセント・ポール寺院の十字架の前で、聖書を燃やすという有名な「焚書舞台」を演出したのであります。彼は158籠のティンダル訳聖書を積み上げ、聖書を持っていたことで逮捕された「異端」たちに、無理やり火のついた薪の束をその上に投げさせました。
司教は火をつけましたが、全イングランドには、間もなくさらに優れた翻訳の新約聖書が多量に入ってきたのです。
ウィリアム・ティンダルは、聖書翻訳のために十分な備えを受けた人でした。彼はオックスフォードとケンブリッジの両大学で学びました。オックスフォードからケンブリッジに転校したのは、有名なエラスムスの講義を聴講するためであったかもしれません(2)。エラスムスは1509年から14年までケンブリッジ大学でギリシャ語を講じておりました。ジョン・フリスと出会ったのもケンブリッジでした。彼はティンダルの忠実な友人となり、彼を助けました。それからティンダルはグロスタシャーのジョン・ウォルシュ卿の家に住み込み、子どもたちの家庭教師を務めましたが、ウォルシュ邸で歓待されていた高位聖職者たちに激しい恨みを買うようになりました。というのも、聖書ばかり引用して、真の信仰は、ただキリストにある生活と聖書を読むことにあるのだと強く主張していたこの男の議論(3)に当惑していたのでした。その議論はまったく反論不可能なものでした。
※(2)「エラスムスとティンダル」:ティンダルが入学したのはまずオックスフオードであったが、ここでは、コレットが1504年までギリシャ語を講じていて、新風を巻き起こしていた。それを求めて行ったのであろう。また、エラスムスがケンブリッジで1511年から14年まで、ギリシャ語を講じた。ティンダルがケンブリッジに移ったのは1516年であるので、直接指導は受けていない。彼はコレットにもエラスムスにも直接会ってはいないが、その雰囲気は十分感じ取ったことであろう。
※(3)「議論」:彼が「私は教皇と彼の法にはすべて反抗する。もし、神の恵みで生き長らえることができれば、長年経ないうちに鋤を取る少年の方があなたより聖書についてもっと多くを知っているようにしてみせます」と言ったといわれている。
この頃になると、ティンダルは当時の英語に聖書を翻訳する決意を持つようになっていました。ウィクリフが前に翻訳した聖書は、その後の英語の変化が大きくて、そのままでは使い物にならなくなっていたからです。しかし、聖書を英語に翻訳するには、タンストール・ロンドン司教の許可が必要でしたが、司教はウィリアム・ティンダルのようなうさんくさい司祭にそんなことを許すつもりはありませんでした。ティンダルがグロスタシャー司教区の司祭全体の監督であるパーカー大法官に公式に脅迫されたり罵倒(ばとう)されたりするようになってからは特にそうでした。
ティンダルはロンドンに出て、聖ダンスタン・イン・ザ・ウェスト教区教会で説教しました。彼の熱のこもった説教が裕福なハンフリー・モンマス卿という布貿易商の注意を引くようになりました。彼はティンダルを家に引き取り、ティンダルが仕事を続けられるように全力を尽くしました。しかし、このような革命的な計画を実行するにはイングランドはふさわしくないと考え、ティンダルはハンフリー卿に借りたお金で、大陸に出発しました。彼はまずハンブルクに行ったと伝えられています。ドイツではルターと接触した可能性もあります(4)。しかし、わざと人に知られないようにしていたこの時期の記録はほとんどなく、伝承もありません。約1年の亡命時代の後、ティンダルの「簡単で大衆の英語に翻訳した新約聖書」が出来上がりましたが、このような禁書の印刷を喜んで引き受けてくれる出版社を捜しにケルンにまで行かなければなりませんでした。
※(4)「ティンダルとルター」:1524年5月27日のルターの来客簿に、ダルティンの署名があり、ティンダルの偽名であると考えられている。この日ヴィッテンベルクでルターに会ったと思われる。
できる限りの用心はしていたのですが、この企てのニュースが反プロテスタント残虐行為で悪名高いコクラエウスの耳に届いてしまいました。彼はこのことをイングランドのウルジー枢機卿とタンストール司教に知らせ、ティンダル狩りに着手しました。しかし、彼が印刷所を襲い、ティンダルの作品が破棄される前に、ティンダルはこのことを聞きつけ、大事な原稿とマタイ伝22章まで刷り上がったばかりのページを持って(5)、ドイツのヴォルムスに逃れました。すぐ印刷は修了し、1526年の春までには、少なくとも6千冊がイングランドに密輸されました。
※(5)「マタイ伝22章」:ティンダルが印刷したのは、全紙10枚、4つ折りにして40枚、80ページで、マルコ伝の初めの部分までである。大英図書館所蔵の現存するただ1つの写本が、22:12までしか残っていないための勘違いであろう。
タンストール司教はなんとかこの密輸を必死にやめさせようとするのですが、どんな努力も無駄でした。新約聖書を焼いたことは、かえって需要を増しただけで、あるオランダの印刷屋がティンダルとは関係のない版を出版するほどでした(6)。ティンダルを捕まえようという努力が失敗に終わり、ロンドン司教はティンダルの古い友人に目をつけました。多くの人が追放されたり、投獄されたり、火あぶりの刑に遭ったりしました。ハンフリー・モンマス卿でさえ、免れることはできませんでした。
※(6)おそらく、1534年出版のジョージ・ジョイのことを言っているのであろう。彼は、ティンダルの許可を得ず、無断でアントアープから出版している。ティンダルは、これを激しく攻撃している。
続いてティンダルは旧約聖書の翻訳に取り掛かり、熱に浮かされたようなスピードで仕事を進めました。しかし、歴代誌を終えきらないうちに、1535年、教会官憲にだまされてアントワープからほど遠くないヴィルヴォルドの城に幽閉されました。彼の裁判は延々と16カ月もの間続きましたが、その間も彼がイエス・キリストに導いた看守の助けで翻訳を内密に続けました(7)。ついに死刑の判決が下り、牢獄の内庭で絞首され、その死体は火あぶりにされました。彼の最後の言葉は、「主よ、イングランド王の目を開きたまえ」だったと伝えられています。
※(7)「獄中での翻訳」:ティンダルの署名入りのたった1枚の手紙が残っており、それに獄中の様子が書かれ、「ヘブライ語の聖書、文法書、辞書」の差し入れを依頼しているが、それが実現した可能性は低いであろう。
彼の祈りが聞かれるのに長くはかかりませんでした。その同じ年、彼の翻訳した聖書がイングランドで出版されました。ヘンリー8世が教皇制度に反旗を翻し、その結果として、タンストール司教は大逆罪で処刑され聖書出版が公に許可されました。ティンダルの裁判が長引いている間にも、以前ハンブルクでティンダルの助手をしたマイルズ・カヴァデールは全聖書(1535年)を出版しましたが、これはほとんど英雄的な働きをしたティンダルのものを元にしています。
これに他の翻訳が続きました。「マシュー訳聖書」(1537年)は、ティンダルとカヴァデールの翻訳の組み合わせであります。「大聖書」(8)(1539)はクロムウェルによって出版されました。「ジュネーヴ訳聖書」(1560年)と「主教訳聖書」(1568年)があります。これらの翻訳のどれをとっても、ティンダルとカヴァデールの影響が際立っています。1604年にジェームズ王が清教徒にも国教徒にも同様に受け入れられるようなもう1つの翻訳を用意するようにとの命を下したとき、それに関わった47人の学者たちがティンダルとカヴァデールの言葉遣いを数多く見つけたことは不思議ではありません。そういった言い回しは、1611年に出版された欽定訳(ジェームズ王訳)聖書を通じて、今も私たちに親しまれています。
※(8)「大聖書」:正確には、クロムウェルの要請によって、カヴァデールが改訂した。併せて当時の事情を説明すると、「カヴァデール訳」(新約はティンダルのもの。旧約はラテン語、ドイツ語より自身の翻訳)、「マシュー訳」(新約はティンダルのもの、旧訳の歴史書はティンダルの原稿、残りはカヴァデールのもの)、「ジュネーブ訳」(原典からの直接の訳)、「主教訳」(「大聖書」の改訂)となる。いずれもティンダルの影響は大きい。なお、「主教訳」の改訂が「ジェームズ王訳」。
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【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏
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世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。
宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。
本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。
ユージン・ナイダ
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