初代キリスト教徒は、聖書を隣人のシリア人、エジプトのコプト人、エチオピア人、さらに敵に当たるゴート人に与えただけで満足していません。彼らはまた福音を、統治者であるローマ人にも与えたのです。
誰が最初に聖書をラテン語に訳したのか見当がつきませんが、大勢いたことは聖アウグスティヌスが当時、「翻訳者の過剰」を嘆いているので分かります。初期のラテン訳のうち最も多く出回っていたものは、イタラ(Itala)と呼ばれています。ところが、これは原典、翻訳ともに間違いだらけでしたから、紀元382年にローマ教皇ダマススが、いち早く賢い青年僧エウセビウス・ソフロニウス・ヒエロニムスの能力を認め、混乱状態に秩序をもたらし、すべての人に理解できるようなラテン語訳を作り出す期待を寄せたのは無理からぬことでした。
後世ヒエロニムス(英語ではジェローム)として知られるようになったこの人は、ローマにあって修辞学と哲学を学んでいましたが、その時使命を感じてバプテスマを受けました。定職に就かずに、内心の不安にかられて、彼は旅立ちました。
初めガリア(現フランス)に出掛け、ついで小アジアに向かいました。ついにシリアのカルキスの荒地に住む禁欲主義砂漠居住民の群れに加わり、徹底的に聖書を学びました。コンスタンチノープル(現イスタンブール)にわずか滞在したあと、砂漠の日で真っ黒に焼け、苦行者のボロをまとったヒエロニムスはローマに戻りました。そして、貴族趣味にふける芸術愛好者に感動的な福音を伝え、多くの人を導き、当てのない不自然な生活を棄てさせました。そのうち2人の女性は、貧困者の住居として、アウェンティヌスの丘の立派な邸宅を寄付しております。
ローマで行われた教会会議で、有能な秘書としてダマスス教皇に仕えてから、ヒエロニムスは間もなく新約聖書改訂の仕事に取り掛かりました。この仕事は3年後に完成しています。皆がイタラの言葉遣いに愛着を感じていたので、改訳は容易な業ではありません。中には改訂がとんでもない冒涜(ぼうとく)だと考える者さえいる始末です。ヒエロニムスはこの窮状を次のように訴えています。
「かりに私が、日々の糧を得るため、額に汗してしゅろの葉からとるに足らぬ籠を編み、ござを織るのを生業(なりわい)にしたら、妬まれずに済んだであろう。だが、救い主(ぬし)の教えに従い、霊に益するため、私は滅びることのない糧を備える道を選び、無知がまいた種を、真理の道から取り除くことを願った。私は今二重の罪をとがめられている。もし聖書の言葉の誤りを指摘すれば、曲解者と呼ばれ、ひるがえって、誤りを黙認すれば、虚偽の流布者としてののしられる」
ただヒエロニムスが、もっと自由にイタラの伝統が教会に伝えた著しい矛盾の幾らかでも訂正していてくれたならば、と惜しまれます。しばしば同じギリシャ語の単語が、韻律上、あるいは特に理由もないのに、ひどく異なった幾つかのラテン語に訳出されています。
たとえば、ギリシャ語の archiereus(祭司長)が、時には princeps sacerdotum(高位僧職者)、あるいは summus sacerdos(僧の最高者)、さらにまた場所により pontifex(僧の長)と訳されているのです。
今日、この矛盾が、スペイン語の聖書改訳委員の問題になろうとは、ヒエロニムスは夢にも考えていなかったでしょう。ヒエロニムスの訳語の食い違いは、初期のスペイン翻訳者たちによって踏襲され、それが後世に伝えられていったため、多くのスペイン人は、これに対応するスペイン語句 principe de los sacerdote、sumo sacerdote、および pontifice の3つが、もとは1つのギリシャ語から訳されたとは知らず、3つの違った職名を意味しているものと信じている有様です。
もし、ダマスス教皇の死のために、また新しい教皇の妬みのために、ローマ帝国の、片田舎に身を隠さずに済んだなら、ヒエロニムスはローマで、ずっと天職を続けていたことでしょう。ところが彼は、この頃すでにギリシャ語と同じように、ヘブライ語をも、ものにしたいという念願にかられていました。それを実現するのには、パレスチナがまさにうってつけの土地です。
間もなく彼は、数人の信仰のあつい改宗者に囲まれて、聖地へ向けて出発しました。この改宗者はヒエロニムスに力を貸して、ベツレヘムにおいて教会と、同信の友のための家屋と、イエス生誕の地を訪れる多数の巡礼たちの雨露をしのぐ宿泊所とを建設しました。
ヒエロニムスは30年の間ベツレヘムに居続け、旧約聖書をヘブライ語からラテン語に翻訳する仕事に時の大部分を費やしました。それだけでなく、彼はまた、24冊の聖書注解書と2冊の教会全史と、何人かのキリスト教隠遁者の伝記と教会業務、および教義問題に関する多数の論文とを、暇を見ては書き上げていました。
およそ20年の歳月が旧約聖書のラテン語訳という容易ならぬ仕事に献げられました。仕事が完成したのは紀元405年、なんと彼が65歳の時でした。しまいに、ヒエロニムスは視力が衰えたので、人にヘブライ語の巻物を読んでもらい、その訳語を書き取るという有様でした。
彼がサムエル記と列王記を出版すると、西方の司教のある者たちから反対の声が嵐のように起こりました。この人たちは、ヒエロニムスが、翻訳にことよせて、自己流の解釈を広めると言って非難しました。
全旧約聖書が完成したあとでも、反対の声は決して納まったわけではありません。しかしヒエロニムスは、妬み深い教会関係者が威嚇(いかく)したところで、彼の翻訳が勝ち抜くことを見透かしていました。というのは、彼が書いているように、「人々はその訳を人前では攻撃し、しかもひそかに読んでいた」からです。
すべての人のために書かれたヒエロニムスのこの名訳を読み始める聖職者や一般信徒は、だんだんその数を増していきました。このことから vulgatus「普及版」の名称が生まれ、今日ではこの聖書は、「ウルガータ聖書」(※)として知られています。
この聖書は、西方教会で広く重用され、公式翻訳になりました。教会会議が招集されるときは、ウルガータ聖書が黄金の宝物箱に収められ、意気揚々と持ち運ばれるのが慣いでした。
ところが教会が、だんだんこの聖書を黄金の宝物箱に入れっぱなしにするようになったことが、そもそも悲劇の始まりです。というのは、教会が権威の問題に関心を持つにつれて、その他のすべてが、おろそかにされたからです。
中世初期の崩壊した社会を足場にして、教会はうまく権威を確立しました。が、世俗の生活にまでその権威をふるったため、教会は自らの魂を失う羽目になったのです。教会のメッセージは、大衆から、また聖職者からも一様にかすんでしまい、ウルガータ訳を高く買っている人でさえ、この聖書の語る天来の悔い改めの宣言が何であるかを忘れてしまいました。
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【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏
世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。
宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。
本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。
ユージン・ナイダ
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