命の言葉を無数の言語に翻訳することは、信仰上の新しい冒険でもないし、また、福音宣教という神のご計画から突然離れることでもありません。事実、「すべての人が母語で」ということが、1900年以上も昔、エルサレムにおける一大ニュースでありました。
大勢のユダヤ人や改宗者(1)が、東はパルティアやメディヤから、北はフリギアやパンフィリアから、南はエジプトやリビアから、西はクレタやローマから続々と詰め掛けていました(2)。商人や銀行家や船長が、また聖なる春季祭典(3)のためにエルサレムに殺到する巡礼者が、昔の「平和の都」(4)に誘われてやって来たわけです。
※(1)「改宗者」:ユダヤ人ではないが、ユダヤ教の割礼を受け、ユダヤ教の律法と習慣に従うようになった人。
※(2)「地名」:パルティア、メディアは、ともに今のイラン、イラクを中心にした東方地方。フリギア、パンフィリアは、トルコを中心とした北部地方、エジプト、リビアは、アフリカ北部地方で、イスラエルからは南部地方、クレタとローマは西部地方。各地に散っていた離散した(ディアスポラ)信仰深いユダヤ人たちが、この祭にはエルサレムに集まった。
※(3)「春季祭典」:「七週の祭」と呼ばれ、春の収穫祭であった。過越祭から7週目の祭。ギリシャ語ではペンテコステ(50日目)と呼ばれ、イスラエルの人たちがエルサレムに集まることを要請されている大祭の1つ。この記事については、使徒言行録第2章を参照のこと。
※(4)「平和の都」:エルサレムのこと。
ある者は神殿で礼拝することを願い、ある者は旧交を温めることを目的とし、多くはぼろもうけをあてこんでいました。大抵はギリシャ語が、この雑多な群衆の用を務めていました。ギリシャ語の分からない人のためには、いつも2カ国語を操るアラム語話者がいて通訳の役を果たしました(5)。
※(5)「ギリシャ語とアラム語」:1世紀のユダヤの言葉はアラム語であったが、アレキサンダー大王以後、地中海地域では、ギリシャ語が共通語として使われていた。
ところが、心細げに身を寄せ合って待っている弟子たちの上に聖霊が降るやいなや、この証し人の驚くべきニュースが、野火のように群衆の間に広がっていったのです。「あのガリラヤの連中の話を聞いたかい。連中はおれたちの言葉で話をしてるんだぜ。聞いてごらんよ」
ヨエルの預言(ヨエル3:1~5)とダビデの約束(詩編101:1)とを宣べ伝えるペトロに耳を傾けた群衆の心は、畏(おそ)れと驚きで締めつけられました。その日のうちに、約3千人もの人が悔い改めてバプテスマを受けました(使徒2章)。そのわけは、救いのメッセージがはっきりとした迫力ある言葉で伝えられたからです。すなわち、心に触れた言語、彼らの母語で語られたからです。
聖霊降臨の奇跡は、初期教会の道しるべでした。命のメッセージが、生きた言葉で伝えられることになりました。新約聖書が市井(しせい)の人々の言葉である共通ギリシャ語(コイネー)(6)で書かれたことに不思議はありません。福音書の著者は、彼らの素朴な言葉を、ハイカラな例えや学者ぶった慣用句で飾り立てるため、修辞学教授を探し回る愚を避けました。この人たちの文章の美は、言葉の飾りにあるのではなくて、思想の気高さに見られるのです。
※(6)「コイネー」:いわゆる古典ギリシャ語と異なり、いろいろな言語の要素を取り入れながら、地中海全域の共通語として用いられていた通俗ギリシャ語であり、新約聖書はこの言葉で書かれた。
イエスに従った者の多くは、イエスがお話しになったことの追憶を書き記したことでしょう。その際、農民も貴族も同じように使っていたパレスチナの言語であるアラム語を多く用いたに違いありません。ところが、福音のメッセージは、ただパレスチナだけではなく、世界中のためのものだったのです。
そこで聖書の記事が、ギリシャ語で書かれるであろうことは、当然考えられたことです。──たとえその記事が、アラム語の源にひどく近寄ったものであり、かつその用語が、イエスが説教に使われたと考えられるアラム語の形を、ひんぱんに反映していたとしても。共通ギリシャ語は、パレスチナの第2の言語であり、かつローマ帝国の東半分全域(後の東ローマ帝国)で使われた言語でした。共通ギリシャ語こそ、当時の世界に福音を宣べ伝えるうってつけの伝達手段であったといえましょう。
地元の異端(キリスト教のこと)を弾圧するために、ユダヤ指導者のとった手段が、かえってそれを世界宗教にした一因になりました(使徒8:1)。彼らはキリスト教徒を分散させてしまったのでした。ところが、それは教会を増やしてくれたようなものでした。
そこで、彼らはサウルと呼ばれた若者をダマスコの地まで派遣して、ユダヤ教に蔓延(まんえん)していた、いわゆる疫病を根絶させようと試みたわけです(使徒9章)。ところがなんべん人を遣っても、この人たちは、悔い改めと赦(ゆる)しと、新しい命のメッセージを持ち帰るだけでした。
このメッセージが、初め何語に訳され、何語で正式に書かれたか知る由はありません。が、最初に流布した翻訳が、ユダヤのキリスト教徒の、北の隣人の言語であるシリア語であった、と考えることはできます。多くの人は、タティアヌスが、2世紀に福音書の物語を編集したものと信じています。
タティアヌスは確かに、伝道の仕事を心掛けていた者のようです。彼は4つの福音書の記事から、イエス・キリストの一貫した伝記を組み立てました。この作品は、「ディアテッサロン」と名づけられました。文字通りには「4つの福音書による」という意味です。
この著作は、シリア語を話すキリスト教徒にとって、イエス・キリストの伝記の入門書をなすものでした。が、間もなく、「簡易版」を意味する、ペシッタ訳と呼ばれた全新約聖書を持つことになりました。これまた翻訳者は、命の言葉を一般人の言葉で訳すことを心掛けたわけです。これが、ネストリウス派のキリスト教徒(7)に与えられたシリア語聖書でした。
※(7)「ネストリウス派」:シリア系のキリスト教で、ペルシャから東に広がった。中国では「景教」と呼ばれ、かなり盛んに宣教が行われた。モンゴルのチンギス・ハーンの一族も景教徒であったといわれている。ネストリウス派は、伝統的に異端の一派とされているが、最近の研究では、かなり正統的であったともいわれている。
この派の教徒は、大きな宣教団となって東方にわたり、そこからペルシャ、アラビア、インド、トルキスタン地方におよび、中国の各地に広がっていきました。この人たちの中国での教会は消滅してしまいました。シリアで守られた遺産(8)を、ここでは継続できなかったことが少なくともその一因です。
※(8)「遺産」:聖書を翻訳して、人々に伝えたこと。
というのは、彼らは隣人である中国の人たちが読めるように聖書を訳さなかったからです。南インドで、彼らは聖トマス教会として存続し、今でもこの地の教会では多くの牧師が、まずシリア語で聖書を読み、ついで口頭でこれをマラヤーラム語に訳しております。
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【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏
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世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。
宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。
本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。
ユージン・ナイダ
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