ある語は、私たちの習慣的な言葉遣いの殻で覆われてしまっているので、ギリシャ語とヘブライ語に立ち戻ることによってしか、神が啓示した福音の原義をあらためて捉えることができません。このような語の一群に、saint(聖徒)、holy(聖なる)、sanctify(聖別する)、sanctification(聖別)といったものがあります。
これらの語の英語における意味を理解しただけで、とかく私たちは、聖書が語っているのは神聖ぶって無為な宗教であると早合点しがちであります。すなわち、ただなんとなくありがたい雰囲気の中で、退屈のあまりに指をひねくり回してみたり、毒にもならない丸暗記のお祈りをつぶやいたり、あるいは心はまったくこの世の思いに占められているにもかかわらず、定められた決まり文句を感激もなく繰り返してさえいれば、霊的な心の持ち主と評判を立ててくれるという印象を受けます。
ところが、これらの語に積極的な意義を見いだすとしても、せいぜい倫理的な善に結び付けられているのが精いっぱいで、ヘブライ語やギリシャ語に見られるあの神聖な威厳など、ほとんど反映されていません。ヘブライ語の語根 qds(7)とギリシア語の語根 hag- は、ただ単に good(善)の同意語というのではありません。
これらの本来の意味は、「ひたすら神へ奉仕するため分離する、聖別する、ささげる」ことであります。人道主義社会にあって、その倫理性の高いことを強調することによってキリスト教を弁護しようと努めてきた私たちにとって驚いたことに、聖書全体の中では、最も重要な語句が、本来は倫理的な意味を表すものではないのです。
「聖」の真意は「ひたすら神へ献身すること」であります。この qds というヘブライ語根が、「売春婦」や「男色者」を意味する語にも用いられているのに気付くとき、上記の事実はただちに明らかになりましょう。セム族の異教の神々を信じ、哀れな境遇に置かれたこれらの人とは、一体どんな人たちだったのでしょうか。
彼らは好色な邪神を崇拝するために身をささげた心酔者(古代の神殿に仕えた少女や少年たち)のことなのです。しかも、この風習は、いまだに東洋のある地域では残存しており、性売春のために、神々にささげられた人たちがいるのです。
すると、私たちが英語の対応語から理解している倫理的な意味を、ヘブライ語、ギリシャ語の用語は、どこで獲得したのでしょうか。この倫理的内容は、神のご性格であり、神のご用のために清められた身である信徒たちに当然期待される生活から生じているのです。
私たちは、かの恐るべき神聖の意識を、再び捉えなければなりません。それこそ神の尊厳の特色です。これにより初めて私たちは、ある人々が永遠者について語る場合に陥りやすい「なれなれしい感傷性」から救われ、かつ、聖別の観念を高めることができるのです。というのは、私たちの神聖は、神の神聖を反映していなければならないからです。でないと、それは、いわしの頭流の信心になってしまいます。
語の意味を、あまり狭く考えたりすると、旧約聖書で誤訳するぐらいわけはありません。しばしば「霊魂」と訳されているヘブライ語 nfs(8)には、「息」「生命」「心」「生きもの」「獣」「人間」「自身(「私自身」といったような句に使われる)」などの幾つかの意味があります。
エゼキエル書18章4節の「罪を犯した魂は必ず死ぬ」という叙述の中に、魂自体が滅びてしまう意味がいくぶん含まれていると解釈した人がおります。が、全体の文脈も、またこの nfs なる語の意味もまた、そんな解釈とはまったく相いれません。エゼキエルの意味しているのは、「罪を犯す者──ほかの誰でもない──が、そのために処罰される」ということなのです。
網羅的な辞書類の、詳細を極めたすべての解説をことごとく頼りにしてさえ、説明し尽くすことのできない語があるものです。ヘブライ語の hsd(9)もその1つです。この語は、「慈悲」「憐れみ」「親切」「愛」「なさけ」「善良」「同情」「しっかりした愛」「恩寵」などいろいろに訳されています。ところが、これだけではありません。上記の語義は、このセム語の豊富な意味のごく一部を示しているだけです。
この語は、王侯の臣下に対する不動の愛であるとともに、臣下の君主に対する心からの忠誠でもあります。また民衆に対する、神の深い思いやりでもあれば、さらにまた、人々の神に対する忠実な愛にもなります。これを「契約の愛」と訳している翻訳者もいますが、これではあまりに狭すぎます。この言葉は神と人とを結ぶ満ちあふれる感動であり、かつまた憐みと、親切と、信仰の絶えざる行為となって現れているのです。
こんなふうに言ってみてさえ、この語の意味を完全に描写するのにはまだ足りません。私たちは、モーセの律法や預言書をなんべんも読み返すにつれ、初めて hsd がどのように神と人とを結び付ける豊かな憐れみと、愛と、親切とを表しているかを分かり始めるのです。
責務を忠実に実行し、神の言葉の啓示の歴史的背景を考慮に入れながら、聖書の文脈と取り組んで、あらゆる努力を惜しまない翻訳者は、神学上重要な意味を持つ際立った1節にある豊かな意味を発見することができるばかりでなく、ほとんど気付かずに過ごしてしまうごく目立たない語句にも、聖書が信頼の置ける書であるという最も大きな証拠を見いだすものです。
マルコによる福音書1章32節の「日暮れになり(そして)日が沈む」とあるのは、何か作者が不当な繰り返しをやっているように思われます。1句で間に合うのに、2句あるのはなぜでしょう。ところが、この繰り返され強調された語句こそ、その日の事件の情景の鍵になるのです。
当日イエスは、教えるためにカファルナウムの会堂へ説教に行っておられました。その時、汚れた霊につかれた者がやって来て、ナザレのイエスを認めて叫びました。イエスは、汚れた霊がこの人から出て行くようにお命じになり、会衆の驚きをよそにこの人は癒やされました。
会堂で教えてから、イエスは弟子を数人連れてペトロの家に行かれました。ところが、夕方になり日が沈み、そこで安息日が終わりになるまで(10)、ユダヤの律法を良心的に守っていた人々は、あえて「病人や悪霊につかれた者をみな」、イエスのもとに連れて来ませんでした。たとえイエスが人を1人癒やされた事実があっても、これが治癒を願うほかの人たちまで、安息日の律法を犯してもかまわないという十分な根拠にならなかったわけです。
この人たちがそれぞれの家庭で、夕方になるのを待ちかねていらいらしている姿を想像することは困難ではありません。太陽が沈むや否や、彼らは争って、病に犯され、悪霊につかれた親類や友人を引き連れてイエスのもとに駆け付けたわけです。
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【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏
世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。
宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。
本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。
ユージン・ナイダ
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