多くの言語が個別的な語、具体的な語に富んでいて、総称的な語、抽象的な語に欠けていることがあります。例えばシピーボ語には、すべての動物にそれぞれ異なった名前があるにもかかわらず、動物一般を表す語がありません。逆に、現地の言語が広範囲な意味の領域を持った、総称語を持っていることもあります。
ンゴク・ディンカ語で dhueen という語は、「善」から「寛容」、さらに「特権」に至るあらゆる意味を含んでいます。1語でこのような幅広い意味を含んだ語があるとは信じられないほどですが、もちろんディンカの文化構造を反映してのことです。熱帯性の豪雨の降る期間には、腐敗菌が襲ってくるし、また無数のネズミ類が、貯蔵した穀類を略奪するので、いろいろな持ち物を大切にしまい込んでおくわけにはいかないのです。
貯えがきかない以上、寛大に誰にでも振る舞ってやらないわけにはいきません。そこで、また物資が要る段になると、あげた人たちを訪ねて、お返しをしてもらいます。富と特権とは、ため込んだ所有財産に左右されるものではなく、物を与えてやる能力によって決まるのです。dhueen の1語が、この文化型のすべてを含んでいるわけです。
異国の文化には、例外なくまったく矛盾するような特性がたくさんあるものです。ボリビア・ケチュア語では、過去を前方にあるものとして語り、未来を後方にあるものとして語らなければならないことを教わると、私たちはケチュア人を愚かであるとか、異常な思考形式を持っているとか言って非難したくなります。
ところがケチュア族は、ちゃんとその慣用句のつじつまを合わすことができるのです。「それじゃ、どうです。心に過去と未来とを思い浮かべてみなさい。見えるのはどっちでしょう」とやられる。いくら私たちでも、1つの答えしかできません。過去は見えるが、未来は見えません。
「そうでしょう。だから過去は前方にあり、未来は後方にあるはずですよ」とケチュア人はわが意を得たり、という顔です。過去と未来についての私たちの解釈は、運動に基づいており、彼らのは透視画的であります。いずれを是とし、いずれを非とすべきものでもありません。
ところで、「四角な円」を考えることができますか、といえば、「できないに決まっている」と誰でも答えるでしょう。ところがペルーの南東の密林に住む、ピーロ族の人たちは、そんな句を使っています。しかも間違いではありません。要は、ただピーロ人の幾何学的把握が、私たちのものと違っているということです。
彼らに poprololu という単語がありますが、これは「四角」とも「円」とも訳すことができます。その本当の意味は、図形の両側が直線であろうと曲線であろうと、対称であればよいのです。gitpo なる語は一般に「円」と訳されますが、元来曲線で囲まれた物体を明示するものです。goshpotalu という語は矩形、すなわち長方形を意味しておりますが、一般には直角のかどを持ったものを言うのです。
上述の2番目と3番目の単語の合成語である goshpotalgitpo は、一見して想像するように「四角な円」を意味するのではなくして、左右に釣り合いのとれた曲線の側面を持つ、長楕円形の物体を指しております。幾何学的形態を見分ける全体系がまったく異なっている以上、実際には上述の語のいずれをも、英語の単一語に訳出することはできません。
彼らの体系は妥当性という点で私たちのと優劣なく、陶器や衣類や顔に描かれている彼らの精巧で複雑なデザインを記述するのに、何ら事欠かないのであります。体系が私たちのものと異なっているからといって、それをけなすいわれはありません。
異なった文化型と同化すればするほど、それの持つ慣用句を、一層容易にまた一層完全に味わえるというものです。ガボンのイプヌ語では、「彼らはその僕(しもべ)を・・・から手で帰らせた」(マルコ12:3)の相当句は、「彼らはその僕を手ぶらで帰らせた」であります。
主人へぶどうを持ってくるように使いに出された僕が、無一物で追い帰されたのです。ひどい目にあった僕が、腕だけぶらぶらさせて立ち去る姿が目に浮かぶようです。このような表現は、福音に命を与える絵のような描写といえましょう。
聖書の、生き生きした描写の中には、もはや私たちが、それが生み出された文化を理解できないがために、かすんでしまって、意味があいまいになったものもあります。「約束された聖霊の証印を押された」(エペソ1:13)もその1つです。
多くの人々にとって「証印を押された」というのに当たる sealed を聞くと、「缶詰にされ」た「保存食」を思い起こしますが、聖書で言っているのは、所有権の確認ということなのです。ンゴク・ディンカ族は、所有権を確認するのに認印を用いません。まして封ろうを用いたり、認印つき指輪で協定を確かめたりなどいたしません。が、彼らは家畜に焼印を押して所有権の印としています。
キリスト教徒の神に対する関係を論じるには、ただ単に「焼印を押す」というだけでは不十分なので、それが「心に」という句によって拡大され、豊かにされています。そこでエペソ人への手紙1章13節は「あなたがたは約束された聖霊によって心に焼印を押された」となるのです。
生き生きした比喩表現であったものが、その意味を失ってしまうこともよくあることです。このことは英語の hypocrite(偽善者)という語についても言えることです。この語はギリシャ語からの借用であり、本来は「役者」を意味しました。しかしながら、マラガシ語では、偽善者に当たる語が、日常生活で十分理解できます。
というのも、偽善者とは「ラフィア(やしの葉)で作ったきれいなじゅうたんを広げる人」なのです。この表現は、だらしない主婦がひょいと外をのぞいてみると、訪問客がこちらにやって来るので、あわてて壁に掛けてあった清潔なじゅうたんを下ろし、掃いてない汚れた床に広げる情景から来たものです。偽善者とは、中身は相も変わらず汚れたおのれでありながら、見かけをこのように素早く変えるに巧みな人を指して言うのです。
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【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏
世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。
宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。
本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。
ユージン・ナイダ
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