聖書翻訳が、いともたやすい仕事であるかのような印象を抱いている人がいますが、こんな人たちは、一足ごとに翻訳者の行く手をはばんでいる煩わしいとげやいばらに考え及ばないのです。ただ原住民から正しい訳語を聞いて、これを書き留めておけば事は足りると推察しているのでしょうが、聖書翻訳には自明のことなど1つもありません。
ある宣教師は、助手たちが正しい訳語を自分に与えているものとばかり信じていました。ところが、彼らは「八福の教え」(マタイ5:3~10)のところで、「祝福された」「恵まれた」または「幸運な」(マタイ5:3)に当たるスベイン語 bienaventurados の意味を誤って解釈してしまったのです。
その結果、ラテン・アメリカの先住民の言葉のあるものに訳出された、このところは「心の貧しいものはばくち運がよい・・・ 悲しむものはばくち運がよい・・・」等々ということになってしまいました。住民の助手たちは、bienaventurados を「運がよい」という意味でしか知らなかったのです。そこでイエスの言葉に耳を傾けて、貧しくつつましくさえしていれば、物質的な報償が与えられるものと予想して大喜びしていたわけです。
直訳が場合によっては物笑いの種になります。ラテン・アメリカのある言語で翻訳者は、「その獣の像に息を与え」(黙示13:15)を逐語訳して「像」が命を得た、と描写したつもりでいました。ところが、実際は現地人の耳に「彼はその像を臭気ふんぷんとさせた」と響いていたのです。
他の例を挙げれば、住民たちはイエスの記録破りな辛抱強さに目を丸くしていました。というのは、マタイによる福音書26章が、この人たちの新約聖書では、1人の悔い改めた女が、イエスの頭で「香油の石壺を砕いた」となっていたからです。まことに奇妙な感謝の表し方があったものです。
もう1つの例を挙げてみましょう。「誕生日」(マルコ6:21)を文字通りに訳したために、ヘロデ王は生まれたその日に(1)、国中の要人に大盤振る舞いをした、ということになってしまったのです──とてもできない離れ業だ、と彼らは思いました。でも、彼らの神話に出てくる英雄たちも、幼くして目覚ましい偉業を成し遂げたことになっていたので、この誤訳を信じる下地は十分あったわけです──もっともおとぎ話としてですが。
ラテン・アメリカの先住民の一族がパウロに愛想をつかしてしまったのも、無理からぬことです。この人たちの聖書でパウロは「雄牛のように妻を引き回す」(Ⅰコリント9:5)と話していたからです。これは翻訳者が「手をとって導く」、または「伴う」という正しい言葉に気付かずに、ただ「何か手のつけられない動物のように引き回す」意味の単語を不用意に用いてしまったからです。
直訳が全く物質的な意味だけにとられてしまって、適切な意味を表すことのできないことがあります。例えば、パナマのバリエンテ族は stiff-necked people(うなじこわき人、がんこ者の意)を、ただ重い中風かリューマチにかかって、首筋がこわばっている人としか理解できないのです。
「がんこ者」に当たる彼らの言葉は「後ずさりする者」です。「後ずさりする者」とは、いわば導くことも後押しすることもできない、御(ぎょ)しにくい、かたくなな人の意味です。あの反抗的に尻込みをする人々のことなのです。
バリエンテ族から数百キロ離れているサン・ブラス人は、このような人を「耳に栓をした人」と描写しております。この2つの異なった例えは、どちらも同じように、わが道を行く人々、反抗的で非協力的な人々を描くに妙を得ております。
直訳がなんら意味をなさない場合があります。こんな訳語は不合理というも愚かです。スーダン語族のある言語では、かつて「聖霊」を「清い息」と訳しました。これは意味をなしません。「清い息」など見た者がいないからです。
翻訳者たちはギリシャ語の場合を考えていたのです。だから、pneuma が「霊」と同時に「息」をも意味することを知っていました。また、「聖」の最良の訳は「清い」であると考えていました。というのは、物質的にきれいな状態を描いている語こそ、たやすく「聖」の意味を表すであろうと思ったからです。
この考え方は「清潔は敬神につぐ美徳である」という意味の、聖書まがいの引用に具体的に表れています。このアフリカの種族にとって「清らか」であることと「神聖」とは全く別のことであり、一緒には考えられないことなのです。
それだけならまだしものこと、困ったことに「清い息」という結合自体がそもそも考えられないことなのです。彼らの言い分は「いやしくも何かが清いという以上は、確かにそれが見えなくてはいけない。ところが、息は見えないではないか、それに息を洗った話は聞かないからね」と言うのです。
宣教師たちは懸命になってこの表現の意味を教えようと努めましたが、初め何でもないと考えていた語の意味を理解させるのに、全く失敗してしまいました。このように翻訳者たちが、言語に咲かせようと骨折る比喩の花びらの多くが、転じてとげやいばらになってしまうのです。
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【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏
世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。
宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。
本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。
ユージン・ナイダ
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