聖書の熱心な愛読者から、念入りに書きつづった手紙が1通、聖書館に届けられました。要旨は次のようなものでした。
私は聖書翻訳をお手伝いしたいと思っている者です。そこで、もし何か未開語の辞書と文法書を1冊送ってくださったら、ひまな時間を新約聖書翻訳のためにささげたいと希望しております。
聖書を持たない人々に奉仕しようという心掛けは立派です。しかし、念入りに考案された文法規則に従ったり、ありふれた辞書の単語をあてはめるだけでは、どんな翻訳者でも良い成果を上げるわけにはいきません。まことの聖書翻訳者は、豊富な地域文化と密接な関係を持っている現地の言葉を深く学んだ者でなければなりません。また聖書の原語を深く研究し、その歴史的背景に通じることも肝要です。
翻訳者となるには、聖書の皮相な知識があるだけでは事足りません。完全な教育を受けていないと、言葉を誤って解釈したあげく、往々にして自分の無知をさらけ出していたにすぎない、という羽目になるのです。
「主の御名をみだりに口にする」(出エジプト20:7)ことが、一般の涜神(とくしん)行為のことであると思っている人がなんと多いことでしょう。たしかにその意味もあります。けれども、旧約聖書におけるこの意味は、宣誓の際、主の御名を口にしてはいけないというのではなく、主の御名によって誓いを立てたあげく、約束を実行しないことがあってはならない、ということです。
「誓い」は呪いとは違います。けれども主の御名によって約束しておきながら、実行しないことが困るのです。ユダヤ人は、意味もないのに神の名をやたら口にするくせがあったので、イエスは神の御名を一切用いてはならないと戒められたのです(マタイ5:34)。これでは自らの信仰を馬鹿にすることになるからです。
聖書の表現のあるものは、私たちにはまったく分かり切ったことのように思われるので、わざわざ時間をかけて綿密に調べたり、それらの語の可能な意味について、手落ちなく調べ上げる労をはぶいてしまうことがあります。
英語改訂標準訳(The Revised Standard Version)の Simon the Cananaean という句を読むとき、Cananaean はシモンの出生地を指しているものと思うのは当然です。ところが、ギリシャ語の本文でこの個所を綿密に調べると、これはまったく地名ではないことが分かります。
この言葉は zealot「熱狂者」を意味するアラム語の音訳であり、彼がいわば極端な国粋主義団体の一員であったことを示しています。これさえ分かれば、なぜ使徒言行録1章13節には Simon Zealotes「熱心党のシモン」とあり、同じ人がマタイによる福音書10章4節で、Simon the Cananean「カナンのシモン」と呼ばれているか、たやすく納得できます。
使徒言行録にあるのはギリシャ語の翻訳であり、マタイによる福音書にあるのはアラム語の音訳としてギリシャ語に借用された言葉です。シモンのような、反ローマ運動で広く聞こえた人が仲間になることで、イエスの将来の政治的立場を示すと思った者もいたでしょう。ところがイエスは一方で徴税人レビ(マルコ2:14)をお選びになっています。レビは、ローマのお先棒をかついで税金を取り立てたため、祖国の裏切者と見なされていたのです。
イエスの弟子たちの小グループの中にさえ、政治的見解と行動の両極端を代表するこれらの2人がいたわけです。この2人の弟子はどちらもイエスの政治的感化力を強化したとは思えません。それどころか、イエスが地上の権力のご機嫌を取るようなことをせず、ひたすら天の国を宣べ伝えることに専念されたのは明白です。
聖書を読めば、大衆相手に政治演説をすることは許されていることだ、とそれを正当化する人がいます。この人たちは、「だってイエスは『屋根の上で言い広めよ』(マタイ10:27)とお教えになっているでしょう。通りすがりの群集に呼び掛けよ、という意味ではないのですか」と主張します。
なるほど今日私たちの社会ではそういうことになるかもしれませんが、この教えは当時の人々に言われた言葉です。イエスの真意は、弟子たちがイエスから内々に聞いたことは、密集家屋に住む人たちが、近くの平らな屋上に集まって、夕涼みをしながら、くつろぎ、雑談を交わしているときに話してやるべきである、ということなのです。
イエスは決してある種の政治集会をお考えになっていたわけではありません。イエスが描いておられたのは、1人の人がその隣人に語ることであり、すでに自分の人生と切っても切れない一部分となった信仰を身近な人たちに分かち合いたいと願って証ししている姿なのです。
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【書籍紹介】
ユージン・ナイダ著『神声人語―御言葉は異文化を超えて』
訳者:繁尾久・郡司利男 改訂増補者:浜島敏
世界の人里離れた地域で聖書翻訳を行っている宣教師たちと一緒に仕事をすることになって、何百という言語に聖書を翻訳するという素晴らしい側面を学ぶまたとない機会に恵まれました。世界の70カ国を越える国々を訪れ、150語以上の言語についてのさまざまな問題点を教えられました。その間、私たち夫婦はこれらの感動的な仕事の技術的な面や、人の興味をそそるような事柄について、詳細なメモを取りました。
宣教師たちは、未知の言語の文字を作り、文法書や辞書を書き、それらの言語という道具を使って神の言葉のメッセージを伝えるのです。私たちは、この本を準備するに当たって、これらの宣教師の戦略の扉を開くことで、私たちが受けたわくわくするような霊的な恵みを他の人たちにもお分かちしたいという願いを持ちました。本書に上げられているたくさんの資料を提供してくださった多くの宣教師の皆さんに心から感謝いたします。これらの方々は、一緒に仕事をしておられる同労者を除いてはほとんど知られることはないでしょう。また、それらの言語で神の言葉を備え、有効な伝道活動の基礎を作ったことにより、その土地に住む人々に素晴らしい宝を与えられたことになります。その人たちは、彼らの尊い仕事を決して忘れることはないでしょう。
本書は説教やレッスンのための教材として役立つ資料を豊富に備えていますが、その目的で牧師や日曜学校教師だけのために書かれたものではありません。クリスチャン生活のこれまで知らなかった領域を知りたいと思っておられる一般クリスチャンへの入門書ともなっています。読者の便宜に資するために3種類の索引をつけました。①聖句索引、本書に引用されている聖書箇所を聖書の順に並べました、②言語索引、これらのほとんど知られていない言語の地理上の説明も加えました、③総索引、題目と聖書の表現のリストを上げました。
ユージン・ナイダ
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