トロントの働き
キノシタ夫妻とメーブル・シャーポース姉は、トロントに定住した多くの日本人のために働きを開拓するよう神の召しを感じていました。ちなみに、マーガレットは、これらの新しい働き人たちが働きを設立するとき、支援のために1度だけトロントを訪れましたが、それを除けば、彼女自身はトロントの働きには関わりませんでした。トロント日系福音教会は、ヨコタ・スタン兄の献身的なリーダーシップの下、数十年間、強められ続けて今日に至っています。これは神の栄光と多くの人の救いのためです。
さかのぼること1942年に始まって以来、マーガレットがたゆまず続けてきた働きは、ついに西部のバンクーバーから東部のトロントまで拡大し、カナダ国内のあらゆる大規模な日系カナダ人コミュニティーに福音をもたらすことになりました。働きの開拓段階は終わりを告げたのです。
ついに日本へ
1955年秋、マーガレットが長年夢見ていたことが起ころうとしていました。カナダ日系人宣教会(CJM)委員会は、「少なくとも2年間」彼女を日本に遣わそうとしていました。目的は3つありました。日本語の学び、日本および日本文化の体験、日系2世の宣教師の日本における奉仕先とその真価の査定です。その時にはすでにCJMが訓練した数人の若者たちが、日本のさまざまな教団の下で宣教師として働きをしていました。そして彼らは、優れた働き人として成果を上げていました。
そういうわけで、マーガレットは3年間近く日本で生活し、学び、旅をしました。そのほとんどの期間を、カゲヤマ・エミ姉と共に過ごしました。
ベネット(カゲヤマ)・エミ姉:私がマーガレットさんに初めてお会いしたのは、1956年、日本でのことで、群馬県大間々(おおまま、現みどり市)の自宅で行っている家庭集会においてでした。私の牧師先生から、マーガレットさんを助けてあげてほしいと頼まれました。来日している目的は日本の慣習を学び、日本人と知り合いになり、日本語を学ぶことだと伺いました。そのため彼女と私は、群馬県新里村(現桐生市)にあるおばの家で一緒に暮らすことになりました。おばには4人の子どもがおり、一番上の子は12歳でした。また、その一家は活発で幸福な家庭でした。マーガレットさんは、就寝の仕方から食事や料理の作法まで、いともたやすく日本の生活になじみました。彼女は家族の一員となり、日本人の考え方や行動の仕方をすぐに習得しました。同時に、家族の者たちはマーガレットさんを観察し、彼女の中にはっきりとイエス・キリストの似姿を見ていました。
どうしてマーガレットさんは、そのようになれたのでしょうか。それは神の召しの故だと思います。彼女が召しに応答し、日本人に福音の良き知らせを伝えたいと、強く願っていたからです(特に日系カナダ人たちに)。日本に滞在していた間、マーガレットさんは、村や山里にあるお寺の境内で子ども集会を持つ機会を片時も逃しませんでした。また、村人たちにはトラクトを配布しました。私は戦時中のカナダで、強制労働収容所に送られた日系人たちとマーガレットさんが、どのような働きをしていたかも聞きました。
マーガレットは、1958年6月にはカナダに戻ることになるだろうと予想していましたが、遅れることになりました。その理由ですか? どうぞ続きをお読みください。
オカモト・タツエ姉:私たち夫婦は、里親になろうという思いから、カナダで日本人の赤ちゃんを探しました。しかし、徒労に終わりました。その後、夫のサムと私はマーガレットさんに手紙を書き、カナダに帰国するとき、日本人の赤ちゃんを連れて来てほしいとお願いしました。以下に、カナダに帰国した後の1958年11月18日に書かれたマーガレットさんの手紙を引用します。
「タツエ姉からお手紙を頂いた折に私がまず考えたことは、『仮にそのような宝物を私の腕に抱くことができたとしても、出入国管理規制でどうなるかしら?』ということでした。私は即座に、カナダ大使館に手紙を書いて問い合わせました。数日後、大使館からの返事がまだ来る前でしたが、驚いたことに、生後1日の女の赤ちゃんが私の腕に抱かれていたのです! お医者様の奥様から『あなたが赤ちゃんを探しているというのは、本当ですか。この女の子を連れて行きますか。この子には良き受け入れ先が必要なのです』と尋ねられました。オカモト夫妻から頼まれた直後だったため、これは偶然ではないと感じました」
最初の申請は通りませんでしたが、数カ月にわたって忍耐強く交渉し、多くの祈りと幾人かの素晴らしい方々の助けもあり、オカモト夫妻は1958年6月18日、エミちゃん(赤ちゃんの名前)のカナダ入国が認められたという知らせを受け取りました。9月には、マーガレットがエミちゃんを連れて帰国し、ウィニペグのオカモト夫妻の元に届けることができたのです。