「ひまわり」(1888年)など、大胆な色と筆遣いによる作品で知られるフィンセント・ファン・ゴッホ(1853~90)。日本でも毎年のように展覧会が開かれ、多くの人が足を運ぶ、絶大な人気を誇る画家だ。そのため、ゴッホに関する研究も多く、作品や人物について多くが語られてきた。本書は、彼が常に内面に抱えていた宗教的なものに焦点を当て、その芸術を論じた全く新しいゴッホ論。
著者の正田倫顕(しょうだ・ともあき)氏は1977年生まれ。東京大学理科1類に入学しながらも、文科3類に再入学し教養学部に進学したというユニークな経歴を持つ。その後は立教大学大学院キリスト教学研究科で佐藤研(みがく)教授に師事し、日本基督教学会、美術史学会などに所属する。ベルギーのルーヴァン大学留学中には、実際にゴッホが暮らした土地や描いた場所、関連美術館などをくまなく調査した。
本書は全3章で構成され、第1章で「キリスト教」との関わりを扱い、第2章でゴッホにとっての「イエス」を考察し、第3章でゴッホが作品に描いた「太陽」の表現形態を取り上げる。
正田氏に話を聞いた。
――ゴッホに取り組むようになったきっかけは?
大学に入学してすぐ図書館で、ゴッホの画集に収められた「アルルの跳(は)ね橋」(1888年)を見、その美しさと静けさに心打たれました。それからたくさんの絵を見ていくうちに、ゴッホの絵から「えたいのしれない迫力」を感じるようになり、それがどこから来るのかを考え始めました。もともと、西洋美術史とその背後にあるキリスト教への関心もあったので、佐藤先生のもと、宗教性を主題としてゴッホの芸術を詳細に分析していくようになりました。
――ゴッホ研究では、彼自身の書いた手紙が重要な1次資料として扱われてきました。しかし本書では、手紙だけに頼って絵を語ってはいません。
これまでの研究は、手紙にこう書いてあるからこうだと記述されがちでした。しかし、それ以上のことは絵に表れていないのかというと、決してそうではありません。例えば「オーヴェールの教会」(1890年)について、手紙では色のことしか書いてありません。しかし、祭壇の空間が手前から奥に押しつぶされていることや、教会を裏側から描いていることなど、手紙では述べられていないゴッホの無意識な思いが絵に表れていると思うのです。ゴッホの迫力ある絵の本質に迫るには、根拠を手紙に求めるという方法論だけでは足りないのです。
――ゴッホの宗教性をどのように見ますか。
教義や儀式、教団といった制度よりも、人間の心身の源を形成するリアリティーがより重要だと思います。ゴッホは祖父や父と同じように牧師になりたいと思っていましたが、現実の牧師たちの偽善に直面し、愛着と憧れの対象であったキリスト教への思いが違和感と嫌悪に変わっていきます。教会の中にはもはやイエスはおらず、外にいる弱く貧しい人の中にいると見るようになり、制度としてのキリスト教から離れることになります。「オーヴェールの教会」はこのことを表しています。
またゴッホは、現実のキリスト教会を見限る一方、イエスのように生きたいと願っていました。実際、炭坑で大やけどを負った坑夫を救ったりもします。「善きサマリア人」(1890年)では、救う者と救われる者との一致、両極の融合を読み取ることができます。さらにこの絵においてゴッホは、サマリア人とユダヤ人を通してイエスと結合し、一致しています。
ゴッホはたくさんの太陽を描いていますが、太陽は彼の宗教性をより強く示しています。それは、今まで言われてきたような光輪の代用でも、イエスの置き換えでもなく、合理的世界観が消え去った時に出現する現象です。記号ではなく、象徴。ゴッホの絵には、自己の内にも外にも位置付けられない〈聖なるもの〉が横溢(おういつ)していると結論付けられます。
――ゴッホはとても熱情的で、複雑な人物のように思えます。
ゴッホは、言葉と行動の一致を極端に求める人間なので、聖書を読んで感動したことを生活の中で実行に移すわけです。牧師からすると常軌を逸しているということになり、疎(うと)まれてしまう。ゴッホはイエスのように生きたいし、貧しい人や苦しんでいる人と一緒にいたい。しかし、実際にそれを行動に移すと、いろいろなトラブルが起きて全然うまくいかない。人のために生きたいのに、人に受け入れられない。これがゴッホの悲しさであり不幸であったと思います。それでも、情熱だけはあふれていて、そのどこにも向けることのできないものが絵に出てきています。
――ゴッホの一生を考えた時、「悲劇」という言葉が思い浮かびます。
ゴッホは、夢の実現のためには直進するタイプで、よくも悪くも純粋な人です。そんなに純粋に行動したのに、一生懸命努力したのに、表面的には何も報われずに死んでしまった。しかし、大画家になっていく過程では、この悲劇性が大きな要素としてあるのも事実です。私もその悲劇性に引きつけられるところがありますが、絵をじっくり見ていると、やはりそれだけではない。絵を描いている瞬間は、父親との対立やキリスト教批判といった次元を超えて、無我の境地の中でもっと大きな生命体とつながっている。この絵で完全燃焼してしまうというような、そういう意識で描いていたのではないか。世間一般から見れば報われない人生ですが、普通の人には感じられない喜びや興奮を、絵を描いている最中にゴッホは味わっていたはずです。
――画家というより人間ゴッホというイメージが強く残りました。
もともと画家としてというより、人間ゴッホに興味がありました。だから、技巧的なこと、形態の話などを語るだけでは満足できません。また、手紙から確実に言えることだけに限定していたら、ゴッホの表現世界に肉迫することは難しいでしょう。ゴッホが語らなかったことにまで目を向け、人間ゴッホの内面に食い込んで追求するよう努めました。本の中に、ゴッホの表現した世界がストレートに出ていたとしたら嬉しいです。
――ここまでゴッホに感情移入できるのはどうしてでしょうか。
ゴッホと父親との関係はある程度自分にも当てはまりますし、不器用な人間関係というのにも共感を抱くところがあります。私も10代後半には、ゴッホのような生き方に憧れを持っていました。金や名声などに一切関係のない生き方、自分のやりたいことを徹底的に追求していく、そこに向かってひたすらに生きていくところにすごく引かれていました。
――最後に読者へのメッセージを。
人間ゴッホに迫りつつ、その芸術の核心を明らかにした書なので、ぜひ多くの方に読んでいただきたいです。ゴッホに新しい光を当てながらその作品を見ていただけると、何か違った世界を体験できるのではないでしょうか。
正田倫顕著『ゴッホと〈聖なるもの〉』
2017年6月1日初版
新教出版社
A5判 204+14+口絵38ページ
2700円(税別)