<本文と拓本>文字32(834+32=866)
騰口於東周(口を東周に騰げる)。先天末下士大笑[注1](先天の末、下士は大笑し)、訕謗於西鎬(西鎬<長安>に訕謗す)。有若僧首羅含大徳及烈[注2](僧首羅含大徳及烈の若き有り)、並金方貴緒(並びに金方の貴緒)、物外高僧(物外の高僧)
<現代訳>
景教は東周(この時の首都、洛陽のこと)の地で悪口を受けました。先天の時代(712年からの玄宗皇帝の時代)の末、下士(身分の低い人、無知な人)たちは大笑いし、西鎬の長安でも非難を受けました。しかし若いリーダーの羅含、大徳の及烈たちは西方(金方)の高名な貴族の出身者で・・・
[注1]『老子』41章に「上士聞道、勤而行之。中士聞道、若存若亡。下士聞道、大笑之」とある。
[注2]佐伯好郎は『景教の研究』で羅含をアブラハムとする。
<解説>
僧首とは主教・牧師のこと。大徳とは大主教・監督のこと。及烈(ガブリエル)は、玄宗皇帝の開元2(714)年に波斯(ペルシャ)から長安に来ました。
『冊府元亀』巻546には「開元2(714)年に波斯の僧及烈が奇器(珍しい器)を造り進呈す」とあり、『冊府元亀』巻971に「開元20(732)年9月、波斯の王が首領の潘那密と大徳僧及烈を遣わし朝貢す」とあり、同一人物との説が挙げられました。また『冊府元亀』巻975に「開元20(732)年8月、波斯の王、首領潘那密と大徳僧及烈を遣わし来朝す。僧(及烈)は紫の袈裟を賜る」とあります。
このような時代に道教信徒たちからも迫害を受けました。そのような中で、霊的指導者が派遣されて来、景教徒たちは強められました。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
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