<本文と拓本>文字32(802+32=834)
阿羅夲為鎮國大法主(仍って阿羅夲を崇び、鎮國大法主と為す)。法流十道(法は十道に流れ)、國冨元休(国は元休に富む)。寺滿百城(寺は百城に満ち)、家殷景福(家は景福に殷える)。
聖暦年釋子用壮(聖暦年に釋子は壮を用い)、騰口於東周(口を東周に騰げる)。
<現代訳>
阿羅本は鎮国大法主[注1]となって尊ばれ、福音は国の十道区画[注2]に流れ、祝福に富み、景寺は百城に満ち、家庭も景教の祝福であふれました。
則天武后(624~705、在位期間690~705)の聖暦年(698~699年)に仏教徒(釈子)から景教は東周(首都の洛陽)の地で悪口を受けました。
[注1]鎮国大法主は、唐の皇帝が宗教指導者に与えた名誉称号。
[注2]十道は、中国全土の区分のことで、『舊唐書』地理志一に「一は関内道、二は河南道、河東道、河北道、山南道、隴右道、淮南道、江南道、剣南道、十は嶺南道」とある。733年には15道となる。景教会堂は至る所に設置されていたことも分かる。
<解説>
則天武后は690年に皇帝に就くと聖神皇帝とし、天授と改元、国号を唐から武周としました。皇帝に就いてから13も改元したことは珍しいことです。さらに、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりとし、偽経の大雲経を作り、各地に大雲経寺を作らせたほど自らを神仏に仕立てました。皇室では、唐皇帝の道教を後にし、仏教の地位を第一としました。また、国字を作ったのも有名で、その1つに國を圀としました。
このことから、仏教徒は則天武后の時代に悪口などの迫害に遭います。仏教徒がおごり高慢になったことからでした。しかし、景教徒にとっては、祈りつつ謙遜に神様に従い、忍耐が試された時代でした。
景教徒たちは、このような迫害と困難な時代に生きていました。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
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