スイス2回目視察シリーズ ⑤
ウィリアム・テルのビュルグレンの村の教会(Catholic Church, Bürglen)
訪問日 2003年9月10日
《見事リンゴを射抜いた後、テルはどうなったか知っていますか?》
夜の雨が上がり、ビュルグレンの村はひんやりさわやかな朝を迎えた。薄い雲はあるものの、明るい空、気温15度。ウィリアム・テルはこの村で生まれたという。
当時ウリ州はオーストリアの支配下にあった。代官ゲスラーは、アルトドルフの広場に立てた竹ざおに帽子をかけて拝ませたが、ウィリアム・テルは、それを無視したのをとがめられ、息子の頭上のリンゴを射るよう命じられた。
宿泊したホテルのすぐ近くに村の教会があり、教会の前にはウィリアム・テルとその息子の像が建っている。テルが息子の頭上のリンゴを弓で見事に射止めたという物語の中から飛び出てきたかのような、黄色の上着にカーキ色のズボンの父親とかわいらしい子どもの姿は、道行く人の目を留める。
赤い尖塔を持った時計付きの鐘楼の外壁には、子どもを肩に乗せて濁流に立つテルの像が大きく描かれている。
ビュルグレンの村の中心となる教会の礼拝堂には、豪華な聖壇がつくられ、長いベンチ式の会衆席が並んでいる。裏には広い墓地があり、どの墓にも色とりどりの花が咲いている。朝9時、小さい子どもを連れた母親たちが花を抱えて訪れていた。
黄色の上着にカーキ色のズボン、白い長靴下に彩色された石像は、1786年アインジーデルンのヨーゼフ・ベネディクト・クリガーがつくったもの。足元の小さな水場は「テルの泉」と呼ばれている。
見事リンゴを射抜いた後、テルはどうなったか知っていますか?
以下、ジュネーブ日本倶楽部(JCG)の会報「BONJOUR!れまん」(岸井敏牧師が書いているコラムの2002年5月号・6月号・7-8月号)に掲載された文章より引用。
アルトドルフの広場の菩提樹の上に掲げた代官ゲスラーの帽子に礼をしなかったために、息子ワルターの頭上のリンゴを弓で射るよう命じられたテルが見事にリンゴを射止めたその後で、第二の矢を持っていたことを見とがめられた時、射損じた時には代官の心臓を狙うつもりだったという言い訳をしたことに立腹した代官は、テルを生涯キュスナハトの牢獄に閉じ込めることに決めたのでした。・・・フリュエルンで護送船に乗せられたテルは嵐の湖で脱走したあと、・・・テルはホーレガッセで、ゲスラーの一行を待ち伏せ・・・悪代官に的を絞って力一杯矢を放ったのです。矢はゲスラーの胸に命中して落馬、そのまま彼は家来の胸の中で命を絶ったのでした。・・・これらの一連の出来事が起こったのが1307年で・・・(後略)
テルの晩年は、生まれ故郷のビュルグレンに帰って平和に暮らしていましたが、1354年に・・・氾濫した川の濁流にのまれた子供を助けた後、力尽きて激流に押し流されてしまいました。・・・立派な17世紀の教会がビュルグレンの町の中心に建っていて、白い塔の壁には、子どもを肩にのせて濁流の中に立つ、クリストフォロスと重なるテルの像が美しく描かれています。
教会内部 華やかな装飾の祭壇
アルトドルフ(Altdorf)
アルトドルフは、ビュルグレンから北西へ2キロほど行ったところにある町。ウリ州の州都。中央広場のドームの塔を背にして、ウィリアム・テル像が立っている。この銅像は、スイス建国600年の記念として1895年に建設された。この町アルトドルフで、テルは、広場の菩提樹の上に掲げた代官ゲスラーの帽子に礼をしなかったために、息子の頭の上に乗せたリンゴを弓で射るよう命じられた。
テルの銅像の背後には、「山々が地にそびえる限り、人は名射手テルを語り伝える」という刻みが読める。銅像の足台の所に、ウリ州の旗とスイスの旗と共に1307年という年代が刻んである。
ジュネーブ日本倶楽部(JCG)の会報「BONJOUR!れまん」(岸井牧師が書いているコラムの2017年2月号・3月号)に掲載されたもの。ハチローは岸井牧師の腹話術芸名。(※本記事は、JCG広報編集委員会の了解のもと掲載しています)
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