9月7日から13日まで6日間にわたり、中西裕人写真展「記憶〜祈りのとき」が開催された。
今もなお、女人禁制を貫き、男だけの聖職者、正教徒の巡礼以外、観光客はごくわずかしか入国できない謎の宗教自治国。取材、撮影も厳しく制限されており、実態はこれまでほとんど語られてこなかった。
私は、このアトスから特別に許可を頂き、日本で初めて公式に撮影を許され、修道士に接し、取材、撮影を続けている。
4年前に洗礼を受けた私は、初めはこのアトスを撮りたいという野心の方が勝っていたのは事実だ。しかし、何度も足を運び、日々の行動で修道士たちと接していくうちに、彼らはこんな私にも家族のような愛でいろいろなことに力を貸してくれた。この地を訪れると、時が穏やかに流れ、そして、自分の中にあるもう1人の自分と向き合える、そんな時間が多く持てるようになる気がした。
修道士たちは日々の祈りの中で、聖堂を離れ、自分1人で祈りの時間を過ごすこともある。また、修道小屋(ケリ)という一軒家に住み、集団生活を避け、たった1人、祈りを続ける者もいる。つまり、生活の場を選べるということで、決して祈り自体に強制を強いていないことを随所で感じることができる。
祈りとは、神との一対一の関係であるということを、一人一人が体現している。苦行というより、ある意味自由に過ごし、一人一人の裁量に委ねられている気すらする。
本来、聖地とは、そのような場所なのかもしれないと、行く先々で感じる。
そのような修道士たちと日々接し、本来祈りとは何のために、誰のためにあるのかということを一緒に考える時間を持つことができたらと思い、今回の展示では、前回に比べ、一人一人の修道士の人間観を感じてもらえるような構成を心掛けた。
物語は、アトス半島の空撮の写真から始まり、午前4時、満天の星の下、修道士たちが漆黒のラーソ(聖職者の衣装)を身にまとい、自分の居室から聖堂に集まり出す。特に普段は許されない至聖所での奉献礼儀の写真は、世界初、日本初とも言われ、正教関係者をはじめ、多くの観客の注目を集めていた。
合計30点の作品は、ハーネミューレというファインアート紙を採用し、Canon製の「imagePROGRAF」で印刷した(プリント:堀内カラー)。
会場内は、作品以外に光を当てず、まるで浮き出ているかのように見せるため、スポット光のみを用いた。この効果により、奥行きと写真自体の深さ、立体感を感じてもらい、あたかもそこに、アトスにいるのではないかと錯覚していただけるように演出を施した。観客からもそのような感想を多くいただいた。
初日の9月7日の夜は、オープニングレセプションが開催された。
写真家の野町和嘉(かずよし)氏もご参加いただき、展示の仕方や作品のまとめ方などについて、お話をいただいた。野町氏は、モーゼが十戒を授かった場所として知られるシナイ山の撮影にも携わり、数多くの著書を出されている。
その日は、ナショナルジオグラフィック日本版前会長の伊藤達生氏をはじめ、写真界、出版関係者など100人を超える方々にご参加いただいた。
9月13日、無事に銀座での個展を終了し、3千人を超える動員数を数えた。この後、展示は、名古屋を経て、福岡で開催を予定している。
作品群、展示演出含め、さらに多くの方々に、このアトスという場所を知っていただきたく、またそこで日々どのような祈りの日々を送っているのか、感じ取っていただけたらと思っている。ぜひ多くの方々にお越しいただきたい。
記憶〜祈りのとき
ある晩の祈りの時、巡礼者たちはメモ帳に多くの名前を刻んだ。修道士はそれを受け取り、司祭に託す。司祭は、その名を小声で口ずさみながら聖パンを刻む。そこに書かれた名とは、家族や友人、知人の名前・・・。仕事仲間や病気で苦しんでいる友人など、自分以外の名前であった。ほとんど自分の名前は書かれないという。(我々は普段、寺社へ行くと、だいたいいつも自分へのお祈りをすると思う)
そして、祈りが始まると、彼らは名を刻んだ人を思い、ひたすらに神と向き合う。この、人のために祈るという行動から私は、本来祈りとは人のことを「想う」ことなのではないかと感じた。
ある日、M司祭は私の兄弟の名を聞いた。聖堂で祈りが始まるとき、M司祭は聖パンを刻みながら、私の兄弟の名を呟いた。間違いなく、祈りの本質は人のためにあるものだと確信した瞬間だった。
祈りとは、きっと自分を取り巻く人のためにあり、神である(正教の場合は)キリストの力を借り、今生きている自分の身の回りの人のことを想うこと。その対象と一対一で向き合える時間なのではないか。争い事が多く起きているこの世の中で、今回の展示を通じて、今1度身近な人から人を「想う」ということを感じていただけたらと思っている。
私は会社員時代から、先日105歳で亡くなられた日野原重明先生を10年以上にわたり撮り続けてきた。先生は10歳の小学生たちに向けて「いのちの授業」と題し、日本全国の小学校で「いのちとは」ということを教え続けてこられた。
私は何度も撮影に同行させていただいたが、そこで先生は「いのちとは、自分で自由に使える時間である」と仰り、それを「人のために使う努力をしましょう」と説かれた。長生きをすれば、その時間は多くなると仰り、先生自身もつい先日までそれを体現されていた。
私は先生のその教えが、アトスで得た経験、正教の教えとがっちりと結びついたと感じた。私がアトスを撮る上で、先生の教えは土台ともなっていたのであった。
日本の正教会ではこの人を「想う」という祈り、行動を、本来自分の過去に体験した出来事や知識を指す場合に用いる「記憶」という言葉で解釈している。
今回の展示「記憶〜祈りのとき」をご覧いただき、こんな時代だからこそ、祈りとは一体何のためにあるのか、その言葉、行動について、皆様と一緒に考えられる時間が持てたらと思っている。
<会期>
キヤノンギャラリー名古屋 9月28日~10月4日
10:00~18:00(最終日15:00まで)日、祝休館
キヤノンギャラリー福岡 10月12日~24日
10:00~18:00 土、日、祝休館
書籍情報
2017年8月31日発売
中西裕人著『孤高の祈り ギリシャ正教の聖山アトス』
原始キリスト教の伝統を色濃く残すギリシャ正教の聖地。俗世とは隔絶された環境で、家畜さえ雌を排除する徹底した女人禁制の下、生涯、この地に生きる2千人の修道士たちの祈りの日々――厳しい撮影制限のため、ほとんど知られることのなかった謎の宗教自治国の実像を、日本人として初めて公式に撮影した、驚きと感動の写真紀行!
<目次>
はじめに
第1章 アギオン・オロス・アトス
第2章 修道院の祈りと生活
第3章 冬のアトス 降誕祭
第4章 ケリに生きる修道士
第5章 「記憶」祈りのとき
アトス修道院に暮らして 性善説のキリスト教
日本ハリストス正教会司祭 パウエル中西裕一
写真解説
おわりに
中西裕人著『孤高の祈り ギリシャ正教の聖山アトス』
B5判変型・175ページ
新潮社
定価5800円(税別)
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