「しかし、弟子たちはイエスに言った。『ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。』・・・イエスは、・・・天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。・・・食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった」(マタイの福音書14:17~21)
「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません』」(ヨハネの福音書6:35)
季節は実りの秋、恵みの秋になりました。私たちも神の恵みと実りを頂くことができますように。私たちの人生の中に、主イエス・キリストがおられるということは、どんなことにもまして頼りになります。主イエス・キリストを信じる私たちは、主に委ね、導かれ、励まされて歩み、安心して迷う必要がありません。
レストランでメニューを見ながら、迷ってしまうときがあります。しかし、日本人の好みをよく知っているプロの料理なら、どれでもおいしいはずで、悩む必要はないかもしれません。私たちの命については、一番ご存じなのは神です。私たちに命を与えてくださった神は、私たちの必要や本当に求めているもの、なくてはならないものを全部ご存じで、それを与えてくださるのです。
一番大事なことは、救い主(ぬし)である神に信頼して素直に委ねていくことです。人生に必要なものは、全部神の御手の中にあります。9月の歩みの中で、主の最善の導きや主の最高の御業を素直に頂きましょう。自分の気まぐれで神の恵みを失うことがないように。イエス・キリストこそが、私たちの必要を満たしてくださることを今日の聖書の御言葉を通して確認しましょう。
1. たった5つの小さいパンと2匹の魚だけ
これは、新約聖書の4つのどの福音書の中にも出てくる有名なエピソードです。このマタイの福音書では、イエスの御言葉に対して、たったこれだけではどうにもならない、という弟子たちの情けなさ、力の足りなさがよく表れています。
もし私たちがその場にいたら、弟子たちと共に途方に暮れたことでしょう。しかし、聖書が教える信仰の素晴らしさは、私たちのありのままの弱さや足りなさで、神の前に出ることができるということです。たった「5つのパンと2匹の魚」が聖書で取り上げられることを喜びたいと思います。
2. 人々は満腹した
当時は、今のように飽食の時代ではありません。今日食べておかないと、明日食べ物があるかどうかも分からない貧しい漁村でした。人々は空腹でした。ガツガツ食べました。
その人たちが満腹になった後、12のかごにいっぱい残ったのです。どれほど豊かな食糧だったのでしょう。このことは、イエスを信頼して共に歩むならば、私たちの人生は必ず驚くほど祝福され、頂いた恵みを精いっぱい用いてもおつりがあるほどの豊かな恵みと祝福があることを表しています。
3. 鍵は主イエス・キリストにある
イエスはパンと魚を祝福し、弟子たちはそれを配りました。弟子たちがそうだったように、悩むことの中に答えがあったのではなく、イエスに委ねることが答えでした。私たちが頑張って努力して修業を積んだから立派な人間なのではなく、罪深さやいやらしさや情けなさを引きずりながらも、神の前に出ると、私たちの人生は大きな恵み、幸せ、祝福、喜び、感謝があふれる人生になるのです。
ヨハネ6:35では、さらに踏み込んで、「5つのパンと2匹の魚」だけでなく、ご自分が命のパンになってくださり、イエスを信じ受け入れるなら、その人は2度と飢えることも渇くこともないと言われています。この話は、イエスの時代を懐かしんで読み返すものではなく、今日実体験すべきものです。イエスを受け入れ、イエスの命を頂きましょう。
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