コプト正教会は、福音記者である聖マルコによって設立されたと考えられており(参照:コプト正教会の信仰(2)聖マルコにさかのぼる信仰の歴史)、コプト正教会にとってその聖遺物が持つ意味は大きい。今回は、コプト正教会側の視点を中心に、その聖マルコの聖遺物がたどった歴史を振り返ってみたい。
聖マルコは、西暦60年ごろにエジプトにやって来てキリスト教を布教し、そのために迫害を受けて68年にアレクサンドリアで殉教したと考えられている。その後、3世紀ごろには聖マルコの墓の上に聖マルコにささげられた教会が建設され、その遺骸は聖遺物として崇敬を集めていた。しかし、この聖遺物はその後、波乱万丈の運命をたどることになる。
まず、451年のカルケドン公会議による教会分裂以後、641年のアラブ軍のエジプト征服まで、聖マルコの聖遺物はカルケドン派(ビザンツ帝国における主流派で、後のギリシャ正教会)の管理下におかれた。その後、コプト正教会に伝わる歴史によると、644年にアレクサンドリアの教会から聖マルコの頭部のみがアラブ軍の水兵によって盗まれ、アラブ軍の船に載せられた。
それを知らない将軍アムル・ブン・アル=アースは、船団の出航を命じたが、聖遺物を載せた船のみが出航できなかった。積み荷を調べると聖マルコの頭部があったため、犯人を叱責した上でそれを船から降ろさせたところ、船はひとりでに出航した。
この出来事に感銘を受け、アムル・ブン・アル=アースは非カルケドン派(後のコプト正教会)の総主教ベンヤミン1世を呼び出し、聖マルコの頭部を返還するとともに、聖マルコの聖遺物を保管するための教会建設の資金を提供したのであった。
つまり、アムル・ブン・アル=アースは、カルケドン派(ギリシャ正教会)の教会から盗まれた聖遺物を非カルケドン派(コプト正教会)の総主教に返還したというわけである。アラブ軍側には、ビザンツ帝国と関係が深いカルケドン派ではなく、それと対立関係にある非カルケドン派の教会を保護することによって、エジプト支配を確たるものにする意図があったとされている。このようにして、聖マルコの頭部はコプト正教会の管理するところとなったが、聖マルコの頭部以外の遺骸については、その後もカルケドン派が管理し続けた。
この聖マルコの頭部以外の遺骸は、ベネチアからやって来た2人の商人によって827年にベネチアに持ち去られたとされている。イタリアの史料『Translatio Sancti Marci』によると、事の顛末(てんまつ)は以下の通りである。
ベネチアの商人が貿易のためアレクサンドリアを訪れていたとき、同市のムスリムの支配者が宮殿を建てるために教会から大理石の柱などを徴用する命令を下した。それを受けて、聖マルコの頭部以外の遺骸を擁する教会の責任者は、教会の建物のみならず聖マルコの聖遺物が没収・破壊されることを危惧していた。
そのため、その商人たちは聖マルコの聖遺物をベネチアに避難させることを提案して承諾を得、聖マルコの遺骸を聖クラウディアの遺骸とすり替えた。商人らは、聖マルコの聖遺物を港から運び出す際、ムスリムの税関官吏の目をすり抜けるためにそれを豚肉で覆って隠し、持ち出すのに成功した。
裏付けとなる史料がほとんど残されていないため、この話がどこまで実際の出来事を忠実に再現しているのか検証することは難しい。しかし、コプト正教会に伝わる歴史では、聖マルコの首から下の遺骸はカルケドン派の教会からベネチア人によって「盗まれた」ものと考えられており、この点については見解の相違があるようである。
ともあれ、ベネチア市は聖マルコの聖遺物がもたらされたことを契機として、その守護聖人を聖マルコとし、それにより聖ペトロと聖パウロを守護聖人とするローマに対抗するとともに、その聖遺物を収容するために教会堂を建設、後にそれは現在聖マルコ大聖堂として知られる壮麗な大聖堂として建て替えられた。また、聖マルコの象徴である有翼の獅子は、現在に至るまでベネチア市の旗に使用されている。
そしてその後も、コプト正教会には聖マルコの頭部のみが残された。おおむね十字軍の時代に重なる11世紀から14世紀は、ムスリムの支配者がコプトを含む非ムスリム共同体に対して苛烈な支配を敷いた時代であった。
コプト正教会に伝わる歴史によると、この時期ムスリムの支配者らは聖マルコの聖遺物を没収してコプト共同体からその身代金を徴収しようとしていた。そのため聖マルコの聖遺物は、アレクサンドリアの教会から持ち出されて敬虔な信徒たちの家から家にひそかに移動され、隠し通された。
その後、比較的平穏な時代が訪れると、聖マルコの聖遺物は元の教会に戻されて安置された。しかし18世紀に入り、カトリック教会によるコプト正教徒に対する宣教活動が顕著になると、再びベネチア人が聖マルコの聖遺物を奪いにやって来るといううわさが立ち、聖マルコの聖遺物は一時期、教会内で他の聖人の聖遺物と共に隠匿されることになった。
聖マルコの聖遺物はその後、今からおよそ50年前に当たる1968年になってようやく、ベネチアからコプト正教会にその一部が返還された。これは、当時のコプト正教会総主教キリルス6世が、聖マルコの殉教1900周年に際して聖遺物の返還をローマ教皇パウロ6世に要請し、それが受け入れられて実現したものであった。
当時、コプト正教会の総主教座は、カイロのアズバキーヤ地区からアッバーセイヤ地区に移転することが決まっており、その新総主教座の開堂式の前夜に当たる1968年6月24日に聖マルコの聖遺物がカイロ空港に届けられた。この聖遺物受け入れの式典には、総主教キリルス6世をはじめとするコプト正教会の高位聖職者および有力な俗人信徒らのみならず、ナセル大統領およびエチオピアのハイレセラシエ皇帝も参加した。
(参照:聖マルコの聖遺物を受け取るコプト正教会の総主教キリルス6世の様子)
聖マルコの聖遺物返還は、第二バチカン公会議(1962~65年)で高まった教会一致の機運を受けて実現したものであった。また、当時のエジプトは1967年の第三次中東戦争で予想外の大敗を喫した直後であり、アラブ民族主義から宗教回帰へと方向転換が模索されている最中にあった。その状況で、聖マルコの聖遺物返還は、カイロのザイトゥーン地区における聖母マリアの出現と並んで、戦争のショック冷めやらぬエジプトに癒やしと祝福をもたらすものとして大いに歓迎されたのであった。
返還された聖遺物は、カイロの新総主教座内の聖マルコ廟に現在も保管されており、信徒らの崇敬を集めている。また、聖マルコの頭部に関しては、アレクサンドリア市中心部の聖マルコ教会に現在も安置されている。
【参考文献】
Anba Shenouda III. 1968. Nazir al-Ilah al-Injili Murqus al-Rasul al-Qiddis wal-Shahid. Cairo: Matbaa al-Anba Ruwais.
Atiya, Aziz, S. 1991. ‘Mark, Saint’. In Aziz S. Atiya ed., Coptic Encyclopedia. NY: Macmillan.
Farag, Lois M (ed). 2014. The Coptic Christian Heritage: History, Faith, and Culture. London: Routledge.
Geary, Patrick J. 1990. Furta Sacra: Thefts of Relics in the Central Middle Ages. Princeton, NJ : Princeton University Press
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三代川寛子(みよかわ・ひろこ)
上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科地域研究専攻より、2016年に博士号を取得。専門は、19世紀末から20世紀前半のエジプトにおけるコプト・キリスト教徒の文化ナショナリズム運動。現在、上智大学アジア文化研究所客員所員、オックスフォード大学学際的地域研究学院客員研究員。