統一協会(世界平和統一家庭連合)からの救出活動を37年前から行っているエクレシア会の和賀真也さん(セブンスデー・アドベンチスト教会名誉牧師)。千葉県袖ケ浦(そでがうら)市にある同会事務所を訪ねると、高額な壺(つぼ)や、統一協会の教理解説書『原理講論』、石像などが棚の上に所狭しと並んでいた。和賀牧師は「戦利品だね」と言って笑う。救出された元信者が「もう2度と見たくない」と言って置いていったものだという。
一方、42年前に統一協会から救出された桑田尚子さんは、その後、小学校教師を経て市議会議員になった。2期8年務めて、現在は地域政党の代表として、地域に根差した政治を目指し、一人一人の市民の声に耳を傾けている。
そんな2人に話を聞いた。
――和賀先生が救出活動を始めたのは?
1974年くらいです。牧師のインターンとして金町教会(東京都葛飾区)に遣わされていたときに1件の相談があって、それがきっかけでした。若い女性が男性ものの服を着させられて、ふらふらと教会に入ってきたのです。よくよく話を聞いたら、池袋にある統一協会のホームに戻るのに迷って、金町教会に入ってきたらしい。しかし言動が異常で、これは一人で帰すわけにはいかないと送り届けたのですが、また翌日、やって来たんですよ。訳の分からないことをずっと話していて、これは大変なことになっていると感じましたね。彼女から実家の電話を聞き出して連絡しました。
――ご家族はどうされたのですか。
ご両親が統一協会側と話がしたいと言うので、相手側に乗り込んでいくのは危険だし、ことを荒立ててはいけないと思ったので、金町教会でミーティングをセッティングしたんです。私が立ち会って、統一協会の責任者に来てもらう約束をしたのですが、当日、統一協会側は誰も教会に現れませんでした。電話をしてみたら、「こちらも忙しい」と言われてね。しかし、彼女は心が壊れるまで真剣に求道していたわけですよ。「一人の魂がかかっているのに、忙しいとはどういうことですか」と言ったら、「こちらにもたくさんの魂がある」ってね。これは何か違うとはっきり感じました。キリストは一匹よりも多い羊を追いかけましたか。違うでしょう。
――相談に訪れるのはどういう方ですか。
以前は大学生の親や親類が多かったように思います。昔は各大学に「原理研究会」という統一協会の組織があったのでね。やっと大学に入って、受験が終わったころ、人生の目的のようなものを見失った真面目な学生を巧みに誘うのが統一協会なのですね。「キリスト教の精神で、世界平和のために」と言ったら、当時は大勢の学生が信じてしまいました。
――桑田さんも原理研究会がきっかけですか。
はい。「平和な世界統一のために」と言われて、正義感だけでその道に進もうと決めてしまいました。当時はまだ統一協会が社会問題になる前で、「世界平和のために」と思っていたので、おかしなものに自分が傾倒しているとはまったく思っていませんでした。いくら親に反対されても、「後になれば分かる」と思っていました。
――和賀先生も、学生にとって統一協会は魅力的だと感じられていましたか。
一般の教会って、政治に対してあまり意見も言わないし、活動もしないところが多いでしょう。しかし統一協会は、世界平和のために行動するところだったのですね。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)という御言葉を実践しているのが教祖の文鮮明だと教えられて、「本当はイエス様も2千年前に地上の天国を作る予定だったのに、失敗した」と刷り込まれるのです。
――桑田さんはどのように救出されたのですか。
私は鹿児島大学に入学して間もなく原理研究会に出会って、『原理講論』を学び始めました。当時、「ホーム」と呼ばれる集会場があって、そこに出入りしながら仲間たちと活動をしていました。いよいよ卒業が近くなってきたとき、統一協会に「献身」を考えていたころ、姉から「あなたの人生だから、あなたが決めればいいと思うけど、キリスト教だというなら、聖書を少し勉強してみたらどう。その代わり私もあなたの『原理講論』を勉強するわ」と言ってくれたんですね。姉はその時、クリスチャンではありませんでしたが、何となく「それもそうだな」と納得しました。その前にも両親が私を心配して、地元のキリスト教会の牧師や宣教師のところに連れていってくれたことがあったのですが、話を始めた途端に、「あなたのやってることは異端だ」と言われたんですね。そう言われると、私も心を閉ざし、耳もふさいでしまって、「この人たちには、今は分からないけど、いずれ分かる時が来るから」と思っていました。
――桑田さんのお姉さんが紹介してくれたのが和賀先生?
そうです。私は大学卒業後、教師になろうと思い、関東の自治体の試験を受けたのですが、その時、ちょうど東京に来る機会があったので、姉が紹介してくれた牧師に会うことにしました。それが和賀先生です。1975年のことですね。それまで私はホームに毎日のように入り浸って、「兄弟」「姉妹」と呼び合った仲間と、「聖書の勉強」と称して『原理講論』を学んだり、夏休みには高麗人参茶を売りに行ったりしていました。
――和賀先生は桑田さんについて何か思い出がありますか。
尚子さんが金町教会にいらしたのは、3日間くらいにわたる聖会の時で、放っておくしかなかった。しっかりと話し合う時間も取れたかなといった感じでした。
――桑田さんはがっかりされたのでは。
ところが、それが私にとってよかったのです。もう散々、牧師や宣教師にも会ってきて、「またか」といった感じだったので。それに、「この人が何と言おうと、私の信仰は変わらないんだから」と意固地にもなっていたところだっただけに、放っておかれて何か拍子抜けしちゃいましたね(笑)。聖会の後も、しばらく金町教会に滞在して、和賀先生から聖書のお話などを聞いたのを覚えています。
――和賀先生も桑田さんのことは気になっていた?
聖会が終わって、やっと一息ついたところで、尚子さんとじっくり話をしようと思ったら、礼拝堂からピアノの音が聞こえてきたんですよ。尚子さんの姿が見えないし、どうしたんだろうと思ってのぞいてみたら、何とももの悲しい音色で泣きながらピアノを弾いているのが彼女だったんですね。その姿を見て、本当に聖霊の導きを感じました。彼女はその聖会を後ろの席に座ってずっと聞いていたんです。そこで、「あれ、何か違うな。若気の至りでついつい突っ走っちゃったな」と自分で感じて、悟ったというか、理解してくれたのですね。
――桑田さん。今から考えると、統一協会の魅力って何だったのでしょう。
『原理講論』うんぬんよりも、そこにいる人々が魅力的だったのだと思います。それから、やっぱり真面目な人が多いのは確かですね。「このままじゃいけない。何か目的を見つけなければ」と思っているときに、うまく心に入り込んでくるんですよね。「聖書を一緒に学びませんか」と言われれば、「そうだな」と思うのですが、実際は『原理講論』を学ぶわけです。それでもキリスト教の土台がある人はよいのですが、何もないと、『原理講論』の何が間違っているのかなんて、まったく気付かない。でもやはり、その真理だと思っていたものが「違うのかな、違うんだな」と思い始めたときは苦しかったですよ。だって、大学4年間をかけてそれを信じてきたのですから。足元から崩されている感じでしたね。