皆さんは、自分の足で自由に歩け、自分の手などが自由に動かせて、ある意味、何でもできる自分の体に感謝したことはありますか。自分の体が自由に動き、「行きたい」と思えば、どこにでも1人で自由に行けることが当たり前に思ってはいないでしょうか。
日々の生活に追われてしまい、また自分の体が自由に動かせることがまるで当然のことに思ってしまい、「自分の体に感謝するなど、考えたこともなかった」という方もいらっしゃるでしょう。自分の足で歩けることや何でもできることは、とても素晴らしいことではないでしょうか。そういう意味でも、「自分の体に感謝の気持ちを忘れないでほしい」と小学生に話すことがあります。
僕はご存じの通り、生まれつき重度の脳性麻痺で、車いすの生活を送っています。中学生の前半ぐらいだったと思いますが、少し歩く練習をしていました。歩くといっても両親や誰かが横につき、汗をかきながら数メートルの距離を数十分かけて歩いた日のことを懐かしく感じます。
気分がいい日には「少し歩く練習をしようかな」と、ヘルメットをかぶり、補装具の特別な靴を履かせてもらい、松葉杖を使って歩く練習をしていました。自分で松葉杖を持っていることが難しかったので、手や腕をベルトで松葉杖に固定してもらっていました。
それこそ1歩出すのに数分かかることや、立っているだけで精いっぱいで、何百回、何千回と転んだか数え切れません。そんな僕を弟や近所の子どもたちが、大きな声で「憲ちゃん、頑張れ!」と応援してくれていたのです。
家から50メートルぐらいあったでしょうか。大きな国道が走っていました。当時、住んでいた場所は、すり鉢状になっていて、国道に出るにもどこに行くにも、急な坂を上らなければいけませんでした。車が好きだった僕は「歩いて車を見に行きたい」と言ったことがありました。
わずか数メートルの距離を歩くのも大変な僕が、急な坂道を上り約50メートル先の国道まで歩いて車を見に行くのは、不可能に近い大きな冒険であり挑戦でした。しかし、両親は「無理だよ」などと言うことなく、「よし、車を見に行けるように頑張ろうな」と言って、僕を訓練してくれました。
ある意味、僕は気分屋さんといえるのかもしれません。「もういいや」と練習より準備する時間の方が長い日や、準備して終わりといった日もあれば、「もう少し頑張る」などと、両親に「もう終わろう」と言われてもやめようとしなかった日もありました。
そんな僕を、両親は「今日はここまで行こう」「今日は頑張って車を見に行こう」と僕のやる意欲を促し、歩く練習に寄り添ってくれていたことを覚えています。学校から帰ってきて、週に数回、歩く練習、訓練をしていた記憶があります。
数時間かけて50メートル先の国道を走る車を見に行くことができたのは、何百回のうちの1、2回だったと思います。そこには達成感がありました。僕にとって大きな喜びと希望につながるものでした。両親が熱心に練習、訓練をさせてくれたことに、今でも感謝している1つの出来事です。
「歩いた」と言っても、実際に自分の足で歩ける生活ができていたわけではなく、生まれてから今まで車いすの生活を送ってきています。そして、車いすが僕の足となってくれています。そういったことからかもしれませんが、僕は自分の体や手足が自由に動き歩けることが当たり前ではなく、「本当はとっても素晴らしく、ありがたいことなんだよ」と、自分の体に感謝して生きるということを子どもたちに伝えています。
中学生まで僕は、手動車いすに乗っていました。手も不自由なので自分で車いすを漕ぐことができず、誰かに押してもらわなければ、どこにも行くことができませんでした。そのためでしょうか。両親や誰かとだったら出掛けて行くにもかかわらず、1人では外に行くことを拒んでいる自分がいたのです。
「憲ちゃん。いい天気だから、外で遊んでおいで」「車いすに乗せてあげるから、日なたぼっこしておいで」。そう父に言われていたことを覚えています。どこか内気な性格だったのかもしれません。両親や家族と買い物や散歩に出掛けることは好きで、「ねぇ、どこか行こうよ」と言って家から出たがるものの、1人では外に出ようとしなかった僕がいました。僕の性格が大きいのですが、手動車いすというものが深く関わっていたのだと思います。
僕は、自分で手動の車いすを漕いで自由に移動することはできず、誰かに押してもらい、行きたいところに連れて行ってもらいます。学校の廊下で目標を決め、車いすを漕ぐ練習をしていましたが、日常の中で自分で漕いで出掛けることはできません。
父と買い物に行ったときのこと。車いすでは入れない商店では「ちょっと、ここで待ってて。買ってくるから」とよく言われ、僕を店近くの路上に待たせて買い物に行く姿がありました。外で待っている僕の姿は毎日のことで、商店街ではちょっとした知られた存在でした。
ある時、本当に忘れていたのか、何かを学ばせようとして行ったことなのか真相は定かではありませんが、買い物を済ませた父に、僕は店近くの路上に置いていかれたことがあります。しばらくして、父は「ごめんね。憲のこと、忘れて置いて帰るところだったよ」と迎えに来てくれました。
決して信用していなかったわけではありませんが、僕はそれ以来、父と出掛けるとき、「置いていかれるんじゃないか」と言葉では言い表せない一抹の不安というものを抱えながら、出掛けていたところがあります。
そんな些細(ささい)な出来事が、僕の中で1つのトラウマになっていたのかもしれません。父に「いい天気だから、日なたぼっこしておいで」と言われると、いつも僕は「嫌」と言って駄々をこねていました。そこには、子どもながらに経験から「忘れられる」「外に置いていかれる」という不安や、最悪「捨てられるかもしれない」という、あり得ない結末を想像してしまっていたのです。
外に出ることを拒んでいた僕は、車いすに乗せられ、玄関先に連れて行かれました。「ここで少し、日に当たってなさい」と言うと、父は家の中に入ってしまいました。車の進入ができない住宅密集地で町内の人しか通らない場所に、僕は1人でいます。寂しがり屋とさまざまな不安が頭をよぎっていたのでしょう。寂しい気持ちと表現できない不安にかられ、大声で泣いていたことを今でも覚えています。
大きな声で泣いている僕の声は、家にいる父の耳にも聞こえていました。しかし父は、家から出てきません。そこには僕に「もっと強くなってほしい」という親の願いと希望があったのだと思います。
泣いている僕の声を聞いて出てきたのは、隣の家のおじいちゃんとおばあちゃんでした。「どうしたんだい? 憲ちゃん1人で日なたぼっこしてたの」と言って、家からお菓子やジュースを持ってきて一緒に遊んでくれました。「うちの子を甘やかさないでください」と、父は時々近所の人に言っていたことを覚えています。
泣いている僕を見て、近所の人たちは当時のことを「かわいそうに思っていたけど、お父さんに言われるから行ってあげることができなかった」と、家の窓越しにそっと見守っていたことを話してくれたことがあります。
こうして1人では外に出たがらない自分がいました。しかし、そんな僕が電動車いすと出会い、180度大きく変わっていくのです。それは高等部に入学して間もなくのことでした。
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