前回、僕は1人では外に出たがらなかった話を書きました。高等部になるまでは手動の車いすだったので、外に出ても自分で漕いで動くことができず、「日なたぼっこしておいで」と外に出されても、1人では外に出ようとしない僕がいました。
中学まで1人では外に出ることが嫌だった僕が、高等部に入学してから「外に行ってくる」と、1人で出るようになったのです。それは、電動車いすとの出会いからでした。
小学部、中学部と通いながら僕は、電動車いすに乗っている高等部に通うお兄さん、お姉さんたち先輩方の姿を見て、「かっこいいな。電動車いすに乗れれば、自分で動けるよ。でも、難しいのかな。乗りたいな」と思ったのを覚えています。それは憧れでもありました。
当時、訓練室に1台の電動車いすが置いてありました。今では電動車いすもおしゃれになり、軽量化や小型化、そして機能性やデザインも自分の用途に合わせて選べる時代へと変わってきましたが、当時の電動車いすというと、大きくて角ばっていて重たく、僕の目にはロボットのように見えていたことを思い出します。
そんな電動車いすを小学部の頃から訓練室でも見ていた僕は「1度でいいから、あの電動車いすに乗ってみたい」と、心の中で思っていました。しかし、「先生、あの車いすに乗ってみたい」などとは、言えないでいました。
中学部の1年か2年か、記憶が定かではありませんが、担任の先生や訓練の先生から「15歳から電動車いすに乗れる」と聞き、「有田君も乗れるようになると思うよ」と言われた記憶があります。そして僕は、「15歳になったら乗れるんだ」と思い、「早く乗りたい」という期待や欲望を思いめぐらせていました。しかし僕は、ある不思議な出来事を目にしてしまいます。
僕の通っていた養護学校(現在の特別支援学校)は県境で、校庭の端を越えると埼玉県という場所にあります。それは、学校交流会で埼玉県のとある養護学校に行ったときのことでした。歩いていると、正面から電動車いすに乗り、運転している子の姿がありました。
先生は僕の車いすを押しながら、訪問した養護学校の先生にこう聞いていたことを覚えています。「電動車いすを運転している子は、何年生ですか?」。すると、「あの子は小学部に通う6年生です」。それを聞いていた僕は、「ちょっと待って。電動車いす。先生は、確か15歳からって言ってたよね。何で乗ってるの?」と、とても不思議に思ったことを今でも覚えています。話によれば、その子は学校にいるときだけ電動車いすに乗っていたようでした。
それは中学3年生の12月だったと思います。機能訓練の時間に先生から「試しに電動車いすに乗ってみないか。動かせるかどうか、乗ってみよう」と言われました。僕はニヤッと満面の笑みをこぼし、大きな声で「乗りたい。乗る、乗る」と即答したことを覚えています。
こうして体が小さかった僕を、先生が大きくて重たい電動車いすに初めて乗せてくれました。初めて乗せてもらったとき、まるでロボットの操縦席に乗った気分でした。「これから、これを動かすんだ」と思うと、夢の時間でした。
電動車いすはジョイスティックで操作し、法定速度も道路交通法で決められていて、現在は時速6キロまでと定められています。
シートベルトを締めてもらい、早く動かしてみたい僕は、操作方法を説明している先生の話など、ほとんど聞いていませんでした。「危ないから、最初はスピード出しちゃダメだからね」。そう言って先生が最低速度の時速2・5キロに設定しました。
「動かしていいよ」。長い廊下を使って練習を始めました。ジョイスティック1本で前後左右の移動ができ、微妙な操作によってスムーズな動きをしてくれます。見た目には簡単そうに見えて意外と難しく、最初は真っ直ぐに走らせることもできませんでしたが、「練習すれば乗れるようになるよ」と言われ、校内での練習が始まったのです。自分で自由に動くことができる。それは夢のようでした。
中学部3年生では訓練の時間に練習し、高等部に入ってからは、乗る時間を増やして学校に行くと曜日ごとに乗せてもらい、練習するようになりました。
電動車いすを購入し乗るためには、運転免許証は必要ありません。しかし、本当に電動車いすが必要なのかとか、操作ができるか、自分で判断できるか、交通ルールや信号を守れるかなどといった福祉の判定を受けなければなりません。僕は練習を重ね、半年後に判定を受け、自分の足となる電動車いすを買うことができました。
電動車いすを購入して3日後、地域の学校との会合にPTA会長だった父が出席することになっていました。放課後に行われる会議で、僕は家に帰ることができず、父と会議に同席するほかありませんでした。
父の車には電動車いすを乗せることができませんでしたので、数日前に「今度の会議の帰りは歩いて帰るぞ」と言われていました。僕は「楽しそう」と、喜んだことを思い出します。
当時、僕の電動車いすは最高速度が4・5キロでした。学校から家まで6キロの道のりがあり、順調に歩いて1時間30分かかる距離でした。会議が終わり「さあ、歩こうか」と、僕は時間を計りながら父と歩き始めました。
歩き始めて30分ぐらいたった頃でしょうか。僕は喉が渇き、自動販売機の前で「喉が渇いた。何か飲みたい」と父に言いました。すると父は「ジュースを飲んで途中でトイレに行きたくなったら、どうするんだ! これから1人で外に出掛けるとき、トイレに行けないだろう。そのための訓練をしておかないとダメだ!」と言い、厳しい口調で叱りました。叱られた僕はその後、無言のまま淡々と歩き続け、家まで帰りました。
もし僕が車の免許を持ち、車を運転することができたのなら「憲さんは飛ばし屋だと思う」と、仲間に言われたことがあります。自分でもそう思っていて、飛ばし屋という言葉に憧れを持った時期もありました。
初めの頃はゆっくり走らせていましたが、慣れてくると最高スピードで走るようになりました。学校で先生から「廊下を走らない!」などと注意されていた方もいらっしゃるのではないでしょうか。電動車いすに慣れてきて校内を最高スピードで気持ちよく走らせていた僕は、よく先生から「コラ!廊下を走らない!スピード出すな!免停にするぞ!」と注意を受けていたことを懐かしく思います。
電動車いすに乗り始め、僕は別人のように変わっていきました。それまで手動車いすで、自分で動かすことも自由にできず、1人で外に出たがらなかった僕が、電動車いすになり、「ちょっと散歩してくるから、車いすに乗せて」と積極的に外に出るようになったのです。休みになると、1人で遠くの方まで出掛け、遊びに行っていました。そして家族から、いつしかこう言われていました。「憲は、どこまで行って、いつ帰って来るか分からない、まるで鉄砲玉だ」と。
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